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■ 神を人生の主語とせよ / 創世記21:14~21 (2011-06-05)

June 5, 2011

「私はキリストを信じております。」この文体の主語は「私」である。
 「主が私を愛して下さいました。」ここでの主語は「主」である。
つまり文章だけでなく、人生というもので、誰が主語になるかでガラッと変ってしまうのである。
 

 仮に「私」が主語であるなら、「私が真面目に働いて、家族を養い育て、社会的にも貢献しました。そして私が神を信じたのです。」となる。
 初めからずっと、中心は私である。
しかし、「神が私の人生に介入してくださり、罪の泥沼から引き上げてくださり、神が私の自己中心的な生き方を変えてくださり、家族を祝福で包んで下さいました。」となると、印象は別人の言葉かと間違うほどである。
 

クリスチャンは「証し」を語る機会が少なく無い。
つまり、人生をどう生き、神を信じ、今がどうあるかを語るのである。
そこで、主語を誰にするかで趣が変ってくる。
 証しとは神の証人となる、ことである。
 神を証言するのであるから、主語が神であるべきだが、多くの証を聞いていると、主語はその人自身になっていることが多い。
 私も思い返してみるとやはり、主語は私であってキリストではなかった。
 恥ずかしい思いがする。
 

アブラハムとサラにようやくイサクが生まれた。
アブラハムは既に奴隷女ハガルに産ませたイシュマエルと言う息子を得ていた。
イサクが乳離れした日、アブラハムは盛大な祝宴を開いた。
それは喜びと感謝に満ち溢れた日であった。
だが、その日こそイシュマエルとその母にとっては、生涯忘れることが出来ない悲劇が待っていた。
 

イシュマエルはイサクをあやしていた。そう思える。
だがサラの目は、たかが奴隷女の息子が主人の子をからかったと見た。
サラは夫に詰め寄った。
 「あなたが生ませた奴隷女の子が、イサクをからかったのです。私は赦しません。イシュマエルがイサクと一緒に、この家の跡取りになれる筈がありません。さあ、早く追い出してください。」
アブラハムは大いに悩んだと、聖書は語る。
 当然である。イシュマエルは我が子である。ハガルに何の落ち度があろうか。増してやイシュマエルにどんな罪があるというのか・・・。
 

その夜、神はアブラハムに現れた。
 「アブラハム、その子供のことで悩んではならない。彼もあなたの子である。
わたしはイシュマエルから一つの国民を起こす。」
アブラハムは翌朝、皮袋に水を満たし、母子を送り出した。
 行く手には遥かに荒野がどこまでも続いていた。
 

 母と子が荒野をさ迷う日々、直ぐに皮袋の水が尽きた。
それこそが二人に死をもたらす合図であった。
 遂に彼女は幼い息子を潅木の下に投げ出し、自分は矢の届く距離まで離れそして座って泣いた。
 「私は息子の死に行く顔を見ることはできない。」
 子供も泣き叫んだ。
 母と子は200メートルほどの距離で離れて泣き、そして渇き、死の訪れに何の為すすべを持たなかった。

 

しかし、ここからの聖書の言葉こそ、すべての人類が聞くべき神のメッセージである。
 創世記21章17節より
『神は少年の声を聞かれ・・・御使いはハガルを励ました。
 恐れてはならない。神があの子の声を聞かれたから。
 少年を起こし、力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。
 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけ、そして少年に飲ませた。
 神が少年と共におられたので、彼は成長し、荒野に住んで・・・』
 

実に僅かな数節の言葉の中で、アピールされていることは?
 神が主語であり、神が主体、主格を取っている。
 本来、神が見ておられるキリスト者の人生はすべて、こうなっているのだ。
だが、実際は私達人間が常に主格に位置している。
 主語を神に置く人生はそれほどに難しいのであろうか。
そう、難しいのだ。それは人間の本性がそれを許さない、我が受け入れないのだ。
やはり人間は違いなく、以前として罪人である。
 勿論、私もザンネンながら・・・アーメンである(悲)。
 

 

 

 

 

 

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