■ 主はあなたの隣におられる / 創世記22章7~12 (2011-07-10)

自分が最も大切にしている宝を「神が欲しい」と言われたとき、人はどう反応するだろう。 しかし、その宝は神が下さったものであるとしたら・・・「やむを得ない、致し方ない。」と腹を括れるだろうか。

日本人には理解出来ない場面である。 権力とプライド、力関係によるものではない。 ただ、神と人の絆によるものだけだ。 一人息子のイサクを、生贄としてささげよ、とのご命令はアブラハムにとって、これ以上の厳しい要求はないと思われた筈である。 しかし、彼は「本気でそれをするために」示された場所へ向かった。 ひたすら神を信じ信頼している故に、である。 それ以上もそれ以下もなかった。

3日目にその場所がはるか彼方に見えた。 モリヤの山、そこでイサクは生贄としての死を迎える筈だ。 アブラハムと二人の若者、そしてイサクの四人の旅は、今日を持って終わる。 今日、イサクは生きて帰るか、死んで帰るか、分からない。 分かっているのは、イサクは間違いなく生贄の子羊となることだけだった。

この旅路の3日間、神はどこにおられたのだろう。 私達人間が一番知りたいことがある。

あの時、人生で最も苦しかった日、あなたはどこにおられたのですか? 厳しい宣告を医師から聞いたあの瞬間、あなたはどこにいたのですか? 未曾有の東日本大地震、そして動く山が押し迫るような大津波が来たとき、神はいったいどこにおられたのですか? 大勢が呑まれ押し流されたあの日、神はどこに・・・ 人間が限りなく求め続けたい答えは、アブラハムの行動に隠されていると思う。 『神は苦しむ心を抱いたままモリヤの山に向かうアブラハムと一緒だった。』 あなたはそう思えるか??

大津波に呑まれた人々と一緒に神はおられた。 命の時間を区切られた患者の隣で、神は彼を懸命に抱きとめておられた。 心が折れて、この世に何の生きる意味をも見失った魂の傍らに主は佇んでおられた。

クリスチャンが一番に信ずるべき見えない方は、今日もあなたの傍におられるのだ。 片時も神は私達を忘れ給わない。

だが、あの十字架の上で「父よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と叫ばれた御子の傍らには、いなかったとしか思えない。 そう、あの断末魔の苦しみと悲しみは人類すべての罪の叫びであって、罪に対する神の裁きと決別であった。 聖なる義なる神がどうしてそこに立ちえようか、と思う。 イエスは苦しみと孤独の中で一人死なれた。

アブラハムが石で祭壇を築いた。 薪が置かれ、縛られたイサクが寝かされる。 父の手に鈍く光る刃物が振り上げられた。 そのとき、神の声が響いた。 「アブラハム、アブラハム。」 神はアブラハムの隣にずっとおられた。 私が、そう思った瞬間である。

私達の傍らに神はいつもおられた。 時として私達を背負い、抱き、盾となられる。 こんな簡単なことが、どうして今まで気づかずに見落として来たのだろう。 33年もクリスチャンをしてきて、一体誰を、どの様に信じて来たのだろうと恥ずかしく思う。

アブラハムは答えた。 「はい、主よ。私はここにおります。」 これこそが、神と人の距離である。

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