■ アドナイ・エレ(主に備えあり) / 創世記22章11:11~14 (2011-07-17)

聖書の神は至高の神である。 つまり、この方より上なる神は存在しない。かと言って、神の下に神は存在しない。 唯一神、生きて働かれる神はイエス・キリストの父である。 神は聖なる義なる方である。 反対に人間は、その存在するところに必ず罪という足跡が残る。 実に人間はすべて罪びとである。

罪あるところには必ず血が流された。 生贄である。生贄は神へのささげ物であり、神との和解の印であった。 昔から神を礼拝するところには、必ず動物の血が伴った。 血は命である。つまり、罪の赦しには、必ず一つの命が消えるという必須課程があった。 人間のために罪無き動物、生き物が殺され、血は祭壇に降りかけられた。 日本人は、そういう祭儀を目の当たりにしていない。 だから、やはり己が罪に対して疎く、無関心である。 私など昔は交通違反でさえ罪と思わなかったし、「罪びとって誰?」とそっくり返っていた。 交通反で捕まっても「たまたま運が悪かった」で済ました。

「罪+血=神の赦し」である。 つまり罪あれば、必ず血が流されなければならない。 この人間の罪を永遠に贖った方がいた。 人類すべての罪の支払いを代わってなさった方、イエス・キリストこそが神の子羊として、十字架で血を流し、死んでくださったので、もう動物の命も血も要らなくなった。

神はアバラハムに息子のイサクを求められた。 イサクの血は、神へのささげ物であり、イサクの命は和解と従順を意味したのである。 キリストの血によって、この身の罪を赦された私達が出来ることがある。 それは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛する」ことである。 これは旧約の大昔から新約の未来まで、私達に求められる「生き方の変化」である。 アブラハムは彼にとって最も重要で大切な宝であるイサクを、神に求められたのであった。 

その日、モリヤの山の上に石で祭壇が組まれた。 薪が載せられ、イサクが寝かされた。 父のナイフが頭上にかざされ、振り下ろされようとしたとき、神の声があった。 「アブラハム、あなたの心がよくわかった。わたしを畏れる思いがわかった。その子に手を下してはならない。」 ふと見ると、角を藪に引っ掛けた山羊がいる。 アブラハムはその山羊を殺し、イサクの代わりに神へのささげ物とした。 後に人々はこう呼んだ。 「アドナイ・エレ」神に備えあり。神の山には備えあり。 人が本気で神に仕え、従うなら、神は必ず備えをしておられる、ということである。

生きるところ、私達はどうしても自分の力に頼ってしまう。 ならば、我が力と存在が神であろうか? だが、神は「わたしを信頼しなさい」と言われる。 明けても暮れて、そう言われる。 だが、私達は中々そうなれない。 すると神は人に試練を与えられる。 ときには実に厳しい試練がやってくる。 それは私達の心が神を信頼し、神に向いて生きるためである。

神は本当に備えをしておられるだろうか? それを信じるかどうかは「私の決心」「あなたの決心」だけである。 アドナイ・エレ、無駄に語られたイサク奉献の出来事ではない。 1978年、3月12日、この場面で、私は主に出会った。 神はやはり備えをしておられた。 それは今までも、そしてこれから先もである。 この先にも試練はきっとあると思う。

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