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■ リバイバルよ来たれ / ヨハネ4章41~42 (2011-07-31)

世界各地の教会では、昔から年に一度、リバイバル集会を開催するところが多い。 目的は教会自身の霊性の復興と悔い改めであり、同時に一般会衆へのアプローチ、つまり伝道のチャンスの時である。 魂が神さまに帰ることは実に清清しいというか、感動である。 特に、初めてキリストを信じて受け入れるその瞬間、つまり神に帰る回心の場面は昔?の自分を重ね合わせて思い返し、本当に嬉しい。

私達の教会にも、この集会が近付いている。 年年によってメッセンジャーは変るが、人々が神に帰ることを第一に願い、それを奨励することが目的である。 教会の周囲、地域の救い、教会員家族の救いが求められるが、先ず私達クリスチャンがリバイブされる必要がある。 教会がリバイブされずして、地域の人々を神さまに導こうなどとおこがましいからである。 リバイブしていない教会にリバイバルが起きないのは当然であるかも知れないが、逆に我らの神は偽者ではないから、何が起こっても不思議はない。 あり得ないことを、これまた、あり得ない教会だってもたらされるのである。 リバイブとは動詞である。人が生き返るとか、意識を回復する、復活するなどの意味がある。 Reは「再び」であり、vive は「生きる」である。

新約聖書、福音書の中にリバイブ(霊的よみがえり、つまり魂の救い)して行く幾つもの例がある。 それらを読んでいて興味を持った点がある。 当然と言えば当然であるが、救われて行くのは人間社会から見放された人々、即ち嫌われ、バカにされ、非難され、そして社会に入れてもらえない人々、分別されたような存在の人たちであった。 イエスを求めない人々(つまり救いを拒否した)は、社会的に地位と財産があり、ハイレベルな立場と暮らしをしているとか、自分で何とかやって行く人たちであり、聖書に通じており、それを自負する人たちでもあった。彼らはイエスを求めないどころか、イエスを憎み、排除しようとさえした。

マルティン・ルターの宗教改革以降、特に19世紀から20世紀にかけて世界で救霊、霊的覚醒運動が広がり、多くの魂が神に帰って行った。 これは実に「凄まじいばかりの大リバイバル」と言ってよい。 明治時代の日本にも同様に霊的覚醒運動の波が押し寄せ、大勢が救われた。 そのとき、キリスト教関係者の多くが感じた印象は「日本はやがてキリスト教の国になるであった。 ああ、もしその現実が残存していたなら、戦争に対する考え方も変わっていたろうに、と思ってしまう。

リバイバルはいつでも、絶えず、すべてのキリスト者と教会に必要不可欠である。 必要であるが、なぜか多くのクリスチャンは距離を置いているように思える。 礼拝で「御国を来たらせ給え」と祈っているが、私など皮肉屋なので「でも、私の都合もあるので、もうしばらく待ってください。」としか聞こえない。 「御国を来たらせ給え」は神が中心であり、神の全面支配を呼び求めることである。

「雨を降らせ給え」と歌う聖歌がある。 ♪シャワーを注ぐ如く、神の恵みと憐れみを降らせてください。 強き音をもって、眠る民の目を覚ましてください。 永遠に変わらない神のことばを一人一人に見させてください。 不思議なあなたのみわざを、どうかこの目に見させてください。と歌う。 まさに、リバイバルを呼ぶ歌である。

昔、教職者アシュラムでこの歌を私がリードしたことがある。 大きな声で弾みつつ歌った。 歌っていると元気が出てきたので、声は自然と更に大きくなった。 終わったとき、ある先生が私に言った。 「前田先生、まるで土砂降りの様でしたね。」 聞いて、その場が笑った。確かに的を得ていた。 しかし、この歌だけはお上品で歌う歌ではない、と思う。 ♪「夕立のごと!天つ恵みを! イェスよ!今ここに注ぎ給えや!」 思わず、いろんな印をつけてしまった。 しかし、そうすれば、聖霊は喜びジャンプして、あなたの内側をかき回してくれるから。 さあ、リバイバルの始まりだ!

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