■ あなたの旅はまだ遠い / 第一列王記19:1~14 (2011-09-25)

クリスチャンが信仰を見失うこ自体、その人生を通して決して少なく無いと思う。 もし、常に自分の内側を見張っていることが出来たとしたら、信じる対象を見失っている瞬間は多々ある、と思う。 私達はそれだけ目の前の世界に気を取られているということである。 突然出くわす目の前の出来事を含め、ありとあらゆる状況と環境において私達は神を見失うのである。 それらはこの世の常であり、誘惑も常にやって来るということである。 それでも信仰を保っていられるのは、慈愛に富たもう神の憐みと、救い主イエスの内在によるのである。

エリヤは実に忠実な神の人であった。 いかなる環境に置かれようと彼は神を信頼し続けた。 彼にとって人生を生きるということはイコール神に従うことであった。 そのエリヤの目線をガラリと変えた女性がいた。 彼女は当時のイスラエルの王妃、イゼベルであった。 隣国の王女であったイゼベルは嫁いで来た際に、とんでもない嫁入り道具をイスラエルに持ち込んだ。 それはパレスチナに行き渡っていた豊穣神、バアルであった。 イゼベルは偶像に仕える祭司達数百人を従え、バアル信仰をイスラエル中に広めてしまった。 実際、このことのために、神はエリヤを呼び出したと言える。

ある日、イゼベルは人づてにエリヤに伝言した。 「明日の今頃まで、仮にあなたを生かしておいたとしたら、神々がこの私を罰するように。」 この言葉は痛烈にエリヤの心に恐れを与えた。 その瞬間、エリヤの目線は主を離れ、イゼベルへと移行してしまった。 結果、この勇士は今までの姿からは凡そ面影もなく、すごすごと退散して行った。

果たしてエリヤの信仰と勇気は、弱気の虫に乗っ取られてしまったのか? そうではない。彼とて一人の人間であることを、聖書が私達に忠実に伝えているのだと思う。 神から目を離したとき、私達は神への忠誠心も信頼も従順も陽炎の様に消えてしまうことがある。 私達に対する神の思いも、距離も変わったわけではない。 私達が変わってしまったのだ。 今まで熱く燃えて主に仕えた姿がどこへ行ったかと、目を疑うほどであるが、私はそれも真実と思う。 エリヤはイゼベルに殺されることは恐れた。 しかし、神に向かっては「どうか私の命を取ってください。もう充分です。私は先祖達より勝れた者ではありません・・・・」と吐露した。 このエリヤは、あの信仰の人エリヤである。 人間とはそういう生き物だと思う。 決して駄目な人間なのではない。 人は生きておられる神にあってこそ強いのである。 そして優しくもなれるのである。

イエスがひたすら十字架に向かって生きることが出来たのは、父なる神の使命と神に対する揺るがぬ信頼の故であった。 人でありつつ神の御子であるイエスだからこそ、成し遂げられた全人類に対する救霊のわざであった。

私達は弱さを恥じる必要はない。 足りないことや欠けを恥じる必要もない。 神は全てをご存知であるからだ。 仮に今日引きこもっているキリスト者がおられたとしても、明日にでも彼をサタンとの戦いに立ち向かう勇士として呼び出すことがお出来になるのだ。 問題は私達が今、誰を見ているかによる。

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