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■ DOOR (ドア) / 使徒の働き16章1~12 (2011-10-23)

2千年前、キリストの福音はイスラエルから現在のトルコ地方へと押し出されて行った。
ユダヤ教の迫害下、見た目は離散状態であったが、実際は「神の摂理」としか言い様がないのである。
 迫害によってキリストの復活と救いの福音は世界へと拡散したからである。

 

パウロというユダヤ教から救いに目覚めた人は、復活のキリストに出会って以来、めざましい活躍を展開した。この男なくして世界伝道は語れないのである。
 

いよいよトルコ(当時はアジヤ州、ガラテヤ州など)全体をキリストの福音で満たすべく、着々と下準備は進んでいた。
テモテという青年はギリシャ人を父としていたため、パウロは彼に割礼を受けさせた。
 伝道の旅に必ず出会うであろうユダヤ人たちに「異論をつけ入るスキを与えないため」であったと思われる。
 人間的であったが、出来うる限りの用意も備えも怠りなかったとは言えた。
そして使徒たちは、各地で素晴らしい収穫の足跡を記しながら、黒海側へと方向を変え、歩を進めていた。
 

しかし、これまでの順調な伝道の旅にドアが閉ざされる時が来た。
 彼らの願いと祈りの甲斐もなく、向かおうとする地へのドアは次々と閉ざされたのである。
 

 教会の働き、そしてキリスト者個人の伝道の道にも、そういう時は決して少なくない。
 懸命に働いても、祈っても、活動しても開かれないドアがある。
 人生も然り、同様である。
 理由・・わからない。
 神が開けて下さらねば、なんとしても開かないいドアがあるのだ。
 

 思えば昔、私が信仰を持った時のことである。
1978年3月12日朝、開けようともしなかったのに、私は自分の心にドアを見た。
それはアブラハムの信仰に強く共感を持った朝だった。
ドアの向こうに誰かがいてノックをしていた。
その日の夕方から夜まで、激しく心の扉を叩かれた。
 私は開けないでいることに苦しくなり、思わず内に引いた。
そのとき、イエスさまが私の心に入って来られた。
 

 人生に存在するドア。
 願っても、叩いても、開かないドアがある。
 「諦めるな」と、マタイ7章7節は言うが、それでも開かない時がある。
そして、そういう時は神さまご自身が別のドアを用意されていることを知った。
 自分の願う入り口のドアではなく、主がご用意し給うドアがあったのだ。
 主が備えられた扉が気に入らずとも、自分を押さえ込んででも、入るべき時だと思う。
その様なとき、心の切り替えが出来ないなら先がないし、自分自身も変らないのである。
 今はそういう時であることを聖霊の助けにより、悟るが良いと思う。
 

 使徒たちは行き詰まったであろうか?当然だと思う。
しかし神はパウロに幻を見せられた。
 果たして、それは夢であったろうか。
そうかも知れない。
しかし、それは余りにも現実感漂う夢だった。
マケドニヤ人が叫んでいる。「どうか渡って来て、私達を助けてください!」
 

それを他の弟子達に伝えたところ、彼らはこれこそ神の導きと信じ、一致してマケドニヤへ渡った。
これがマケドニヤ、アカヤ(今のギリシャ)地方にキリスト者が誕生し、キリストの教会が生まれて行った経緯である。
 

 押しても引いても開かないときがある。
その時こそ、神の摂理を認めよう。
 理由を問わず、神を求め従うのだ。
 不条理なときだってある。
それでも、神を第一とするのだ。
それが信仰でなくて何なのだろう。
 決して不信仰と意固地の部屋に閉じこもらない、ことである。
 

 

 

 

 

 

 

 

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