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■ 大胆に、そして真摯に / 使徒の働き12:1~17 (2011-11-06)

November 6, 2011

秋深まる休日、久しぶりに庭木の手入れをした。
 紅葉が始まった時期ではあるが、「蝋梅」の葉はまだ緑色であった。
ふと見ると、葉の陰で小さい蕾ではあるが、やがて咲く時に備えが出来ている様だった。
 寒さはまだまだこれからである。それでも咲くために備えている。
 

 蝋梅は正月が過ぎ、暦が小寒に入る頃から花を咲かせる。
 甘い匂いと共に、小さくて黄色い花が愛おしい姿である。
 梅もまだ咲かぬ時期、小寒から大寒に向かって咲く花に「信仰のあり方」を教えられたように思った。
 厳しいときだからこそ、神に向かって生きようと、教えられた。
それこそ信仰の花を咲かせる瞬間ではないだろうか。
 

 『大寒の 唐梅(からうめ)(蝋梅)に見る 花の意地』
 

 信仰は確かに意地ではない。
あくまで神を信じ、生かされていることの実態と表現であろう。
しかし時として、内なる決心以上に、自らを叱咤激励、鼓舞しなければ一歩も前に出られない時がある。
パウロは第一コリント9章で「私は自分の体を打ち叩いて従わせた。」と言っている。
 「そうしなければ為らない時」が来る。
そのために今、準備しているのではないだろうか。
 祈り会、礼拝、単に感謝だけで行くのではない。やがて来る厳しい訪れに真向かうためのであるとも思う。
 

 私達クリスチャンは進化している筈である。
 生涯、幼稚園とか小学生でいるわけではない。
 人生で、教会で、社会において、信仰生活において大いに進化しているのである。
 当然、変わらない部分もあるだろう。
だが、私達はより成長し続ける。
 成長したいか否かではなく、神さまに向かい、神を考えてゆく中で自然と変化させられるのである。
 神によって・・・
 

大胆に神を信じることがいい、と思う。
その人の人間性とか性格によって、静かな礼拝とか賑やかな礼拝を好む違いはあるだろうが、「神さまを信じること」においては大胆が良い。
 神さまは私達の頭、つまり想像、想定の枠内に収まる方ではない。
 見えない方、全知全能なる方が、限界あるチッポケな人間の想像世界には所詮収まらない。
 

 昔、ユダヤはヘロデ王の時代、キリスト者迫害が始まった頃。
 使徒ヤコブが捕らえられ殺されると、ユダヤ人たちは大いに喜んだ。
それを感じて勢いづいたヘロデはペテロを捕らえ、獄につなぎ、厳重な警護をさせた。
 数日後、ペテロの首をはねる積りであった。
 

ところが聖書は言う。
 「教会は獄中のペテロの(救いと解放)ために、熱心に祈っていた。」
そして神はペテロを獄から解放し、集まり祈っていた人々の家に向かわせたのである。
その経緯はあまりに淡々と語られているが、ルカはそう書くしかなかったのであろう。
 

 超不自然な導きの中で、ペテロは集会をしている家の扉の前に立ち、戸を叩いた。
 中で信者達は祈っていたのだろう。
 女中のロダは戸を開ける前に、ペテロの声と察して喜びの余り、戸も明けずに中に戻ると皆に伝えた。
 「ねえねえ、皆さん、喜んでください。ペテロさんですよ。ペテロさんがドアの外にいます!」
しかし中では誰一人ロダの言葉を真に受けず、ペテロの帰還を信じなかった。
 彼らは暫くの間、言い合いをしていたが、しきりにドアを叩くぺテロの声に出てきて彼を見て驚いた。
 

ここに人間の限界を見る。
 教会は熱心に祈っていたが、真摯に信じていなかった。
 神を信じていても、現実面で信じていなかったのか。
 神さまがどの様にしてペテロを解放されるのか、人には分からなくてよいのである。
 熱心とは自分を捨てて、神を見上げることではなかろうか。
それが大胆に、真摯に、ということではないだろうか。
そういう次元を認め行くことも進化の過程にあるということだと思う。
 

 

 

 

 

 

 

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