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■ 教会の襞(ひだ) / 使徒の働き6:1~7 (2011-11-13)

November 13, 2011

世の中、襞(ひだ)が多い。
つまり高い場所と低い場所が折り重なっていることを言う。
 例えば私の家から南の彼方を眺めると三層の山並みが美しく目に入る。
 上から見たら襞に見えるであろうか。
しかし水平視線でみれば、山並みが絵景色に見える。
 手前の山並みは色濃く、遠方になるに従って色は薄い青になる。
こんな景色を縁側に座って見ることが出来るなんて、実に幸せだと思った。
 

 「私は山に向かって目を上げる。
 私の助けはどこからくるのだろう。
 私の助けは天と地を造られた神から来る。」詩篇121編
いつも、このみことばが迫り来る。
 

 人の心にも襞がある。
 別に嬉しいことがあったわけでもないが、時として心弾むのは何故だろう。
 悲しいことがあったわけではないが、時として心沈むのは何故だろう。
 

 谷間の様な場所で苦しみ悩むときがあり、信仰の高嶺で霊的な喜びに浸れるときもある。
しかし、低地でこそ学ぶべきことは限りなくあるし、喜んでいる高嶺にだって隙はある。
 人生とは実に不思議な旅路である。
 

 原始キリスト教会は実に柔軟で自由で素晴らしい霊性を持っていたと思う。
 新約聖書はないし、頼るは旧約の律法であったろうし、ましてや教会規則もなかった。
しかし、彼らは決して律法的に生きてはいなかった。
ひたすら、イエス・キリストの御霊にしっかりと導かれて生きた。
 

エルサレムにおいて原始キリスト教会は細胞が増殖するが如く、凄まじい勢いで増え続けた。
エルサレムの町に川の水が氾濫するかの様に、教会は福音を広めた。
 教会は各家に集まり、祈り、食事し、必要があればお金を持ち寄り、中には土地を売って資金を提供する人もいた。
その様を見て多くの人たちが共感を持ち、そして更に増し加わった。
 

 当然、群に襞が出来たかのように思えた。
 食事が公平に行き渡らない時が多々あった。
 特に未亡人達が見過ごされていたらしい。
そこで、使徒たちはどう対処したか?
たかが食事の配給に関してである。
 

 果たして現代の教会であったら、誰を立てるだろう。
 多分、集まりを取り仕切ること長けた器であろうか?
または宴会部長的な人であろうか?若しくは長老であろうか?
そして世話が得意な人であろうか?
だが、使徒たちは現代的な見方をしなかった。
 彼らが選んだのは、御霊と知恵に満たされた人々であった。
たかが食事の配給のために、である。
 

しかし、それは的確な判断であった。
それある意味、牧会の一環である。
この世的な見方をしなかった教会は素晴らしいと思う。
そして選ばれた7人は、まさに御霊と知恵に満ちており、12使徒に勝るとも劣らない人たちだった。そこにはステパノがいてピリポもいた。彼らは伝道者であり、選民イスラエルの上に座した神のしもべたちであった。
 

 見るからに小さな綻びでも、そのまま放っておくと、間もなく修正仕様が無い大きな穴となる。
 原始キリスト教会の強さはここにあった。
 襞は幾つも折り重なっている。そしてやって来る。
そのとき、何を見て、誰に従うか。
 何を価値として行くかが問われる。
 

 覚えよう、教会は仲良しグループを作る場所ではない。
そこは神に呼び集められた群である。
キリストを仰ぐべく御霊と知恵に満ちた人々を起こしてゆく使命を与えられた場所である。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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