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■ この正比例は真理である / ルカ7:36~50 (2011-11-20)

November 20, 2011

1978年3月12日、キリストに出会った。
 人生において、初めての不思議な体験の中に、不思議と平安な思いに浸ることが出来た。
その意味は自分の過去の罪がすべて赦されたことに拠るものであった。
そして一つの罪を認めたとき、まるで泥縄を手繰り寄せる様に、ズルズルを罪の汚物を引き上げざるを得なかったのである。
その全てに十字架の赦しを見たとき、私は神への愛が更に強いものとなって行った。
 実に「多く赦された者は、多く愛する」のである。(ルカ7:47)
 

 普通の世界、普通の人生、普通に生きてきた私達は罪に対する認識度が左程深くはない。
 刑務所内で服役している人の方が、はるかに深刻に罪を見ているのである。
しかし、その後の信仰生活でより聖書に接し、より近く、イエスの傍で生きて行くと神の赦しの深さを更に知ることになる。
それは聖霊によって、己が罪をより強く知らされたからである。
 実に「自分の罪が解ると主の愛が解る」のである。
 

 「主の愛が解る」と、当然であるが今までの自分の取り組みでは物足りなくなる。
すると、自然とリバイバルが訪れるのだ。
 自然と、と表現したのは神さまが聖霊の風を私に向かって吹きかけて下さるからだ。
そして次に何が起きるか?
そう、信仰が進化するのである。
これは実に素晴らしい巡り合わせであると思う。
 恵みと祝福、罪の自覚と懺悔、その浅さと深さ、すべては正比例しているのである。
 

パリサイびとは自分たちを別格に見ていた。
 社会の低層階級に生きていた人々、取税人、遊女、すべては罪びと、その人々はパリサイびとにとって当然の如く差別の対象であった。
 又、死に対して実に敏感に穢れを意識した。
それらとは確実に距離を保った。
 故に、社会からは「パリサイびと」(自分たちを分離する人々)という蔑称で呼ばれたのである。
その様なパリサイ人に対して、イエスは鋭く切り込んだ。

 

パリサイびとがすべて同じ人種であったわけではない。
あのニコデモは実に謙遜であったし、神を求めていた。
しかし、大方においてパリサイびとは「律法を(神のことば)学んで、神を学ばず」であった。
 私達クリスチャンとて然りである。
 礼拝を重要視することは素晴らしいのであるが、礼拝の対象である方を見上げるべくして礼拝に出ていることを忘れてはならないと思う。
 自分が礼拝を守ったから清められたのではなく、唯一の神を信じ、罪の赦しをいただいたからこそ清められたのである。
それに対する感謝、つまり「霊」をもって「礼」を尽くすのである。

 

イエスが売春婦に対して言ったことばを私達は忘れてはなるまい。
 「だから、わたしは言うのです。
 『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。(ルカ7:47~48)
 

 

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