■ 2012・主はわがいのち / 申命記30:9~20 (2012-01-01)

今年は一月一日が日曜、つまり主の日と重なったので、元旦礼拝であった。 幾年かに一度だけ、こういうときが訪れるが、やはり意味あるものである。 一年で最初の礼拝に向かうとき、毎年心に迫り来る聖書箇所がある。 それは申命記、モーセがはるかに約束の地を見ながら、当人の思いとは裏腹にその命を神に召し上げられる経緯が書かれた箇所である。 神さまはピスガの山の頂にモーセを導き、遠くはるかに北から南まで見せられた。 そして仰せられた。 「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」

人間的に考えるならば、実に不条理である。 モーセは年老いてから、行きたくもないエジプトくんだりまで行かされ、奴隷の身分となっていたイスラエル民族を脱出させ、更に四十年間民と共に荒野の生活を余儀なくされた。 泣きたいよりも逃げ出したくなる環境と立場であった。 それは実に何びとも真似の出来ない過酷な仕事であった。 それは自分が在ることを無視し、ひたすら「初めに神ありき」の日々であった。 そんなモーセであったのに、目の前に開けた約束の地は足を踏み入れることもなく、モアブの谷で死んで行く。

しかし、モーセほど神から信用され、神の仕事を託された人は他にいない。 そして私は神さまのお考えを想像し、こう考えた。 もしかして神はこう考えられたのだろうか・・・。 「モーセよ、あなたは既に充分にわたしに仕えた。ここから先、更にあなたに苦労を掛けたくない。だから、わたしの腕の中でゆっくり休むがよい。」 聖書は言う。 「こうして主の命令によって、主のしもべモーセは死んだ・・・」申命記34:5 幾つもの主という言葉がモーセと彼の人生にかぶっている。

モーセは遠くはるかに約束の地を見渡した。 私は年の元(はじめ)に一年を見渡す。 様々な景色が見えて来る。 喜びの川があり、悲しみの砂漠がある。 恵みの高嶺があり、試練の谷がある。 それだけは確かであろう。 だが我らが神、主はいつだって私やあなたに伴ってくださる。 だから、一年の元は「ピスガの山の頂」に立たされた思いがする。

申命記30:20に、こういう御言葉がある。 「確かに主は『あなたのいのちであり・・・・・」 いのちとは私達の人生であり、日々の暮らしであり、生き様であり、言動であり、命であり、価値観であると思う。 命とは活きることであり、生きることである。 「いのち」とはすべての原動力である。 つまり、神が私達の生きるところで原動力である。 聖書はそう断言するが、同時にもう一つの問いを含んでいると考える。 それは・・・「あなたの生きる力はどこから来ているのか?」である。 この問いに日々答えることこそ、私達の神に対する生き様の応答となる。

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