■ 限界の先にあるもの / 士師記6:14~32 (2012-02-12)

人間は各も不安、心配から逃れられない生き物である。 それが偶像というものを造りだしたと考える人は少なく無い筈である。 だが、なぜ人の心に不安心理が存在するかを知っている人は少ない。 心理学に頼る積りなど、毛頭ない。 聖書だけが、それを教えてくれている。 人は唯一、誠の神、創造主に帰る以外、不安心理は消えない。 そして最も惨めな人々は、偶像を信頼し偶像によって助かる、と思っている人々である。

昔、イスラエルの人々でさえ偶像に心を奪われていた。 否、イスラエル故にこそ偶像を求めたのかも知れない。 士師の時代、誠に嘆かわしい現実がギデオンを取り巻いていた。

神はある日、ギデオンに仰せられた。 『あなたの父が持つバアルの祭壇を取り壊し、アシェラ像(豊穣神)を切り倒しなさい。』 ギデオンは意を決して10人ほどを連れ、夜中にコッソリと出かけ、主に言われたとおりにした。 翌朝、町の人々(イスラエル人)は壊された像と祭壇を見て驚き、早速調査に乗り出した。 間もなくそれがギデオンの仕業と判明したので、人々はギデオンの父ヨアシュに詰め寄った。 「あなたの息子を引っ張り出して殺しなさい。ギデオンの仕業と分かったから。」 だが、ヨアシュは答えた。 「もし、バアルが神ならば自分の祭壇を壊されたのだから、怒りの鉄槌はバアルが何とかすればよい。」 実に痛快なヨアシュの言葉であった。

しかし・・・である。 イスラエル、それも12部族の中のナセ族の末裔、ヨアシュがアシェラ像を拝んでいたことが何とも情けないのである。 増してや、町の人々も同様であった。そして、おそらく全イスラエルが同様であったと思われる。 そして、ヨアシュはギデオンの仕業をどう感じたであろうか。 つくづく我が身と心を、本心から嘆いたと想像する。 日本的に言えば、実に「情けない親父」となっていた。 御霊なる神は目に見える体は持たない。 世界でこの方だけが姿を持たない。

日本人は信仰、信心、宗教を持つことを尊ぶ。 だが、それは間違っている。 何かを敬い信じることが尊いのではなく「誰を、何を」信じているかが問題だ。 信じるだけなら、メザシの頭だって対象になれる。

今、神はギデオンを個人指名された。 この嘆かわしい現実に辟易されていた。 御霊なる神の前に生きるということは、聖霊の力に押し出されて生きることである。

イナゴの様な大群はイスラエルに迫っていた。 そして遂にギデオンのラッパが鳴り響こうとしていた。 神の時は既に訪れた。

今日、あなたの心は何を神としているだろう。 聖霊があなたをどの様に用いられるか、あなたは想像しただろうか。 あなたは自分の限界という枠の中で、生きていないだろうか? 枠の中にぬくぬくと生きていて、神の力を体験できない。 枠を一歩でも二歩でも超えたところでなければ、私達は今でも神以外のものを頼りとしているのである。 是非、それを体験して欲しい。 現実で体験せず、どう神のみちからを人々に語れるのだろう。

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