■ 主の霊があなたを覆う / 士師記6:30~40 (2012-02-19)
確かに!私達が神さまに対してガッカリしたことが無いのでは無い。 自分の期待通りに行かないことだって山ほどある。 と言いつつ私達がどれ程神さまの期待を裏切って来たかというと、これが半端じゃないのだ。 なのに、神さまに向かって文句の幾つかも祈りたいときがあるとは、トホホのホでしかない。 放蕩娘、放蕩息子を何億人も抱えながら、今日も祈りを聞いて下るとは・・・やはり神である。
ギデオンの名を呼び、奇跡のしるしを体験させ、そして遂にギデオンは神の兵士となった。 これだけ恵まれれば、誰だってギデオンに成れる!だろうか? 神の御目は「その人」の過去を問題にしない。 「その人」の今から先、未来を見ておられる。 「その人」が、どれだけ生ける神と一緒に行動出来るかを・・・
『主の霊がギデオン覆ったので彼が角笛を吹いたとき、多くの仲間が集まった。』とある。 私達は自力で「主の霊に覆われる」ことはない。 つまり、感覚的に、感性において恍惚となる状態とはまったく違う。 現代、様々な場面で出会う恍惚状態なら、道端の牛の糞の様な新興宗教でさえ出来る。 それを見極められない人間の何と多いことか、と思う。
『主の霊が』ギデオンを覆った。 ギデオンが主の霊を覆ったのではない、そのところの意味を読み落としてはなるまい。 ギデオンが神さまの命令どおり、父の持っていた偶像を叩き壊した後、敵軍は蜂起した。 神はその機を待っておられたかの様に、前もってギデオンを御霊で導かれたのである。 ここに、神さまが呼ばれ、人が応え、人と神の出会いがあり、人は主の霊に満たされた。 若くて弱く、「どん引いていた兵士」は今や、別人になった。 それは「彼がではなく」、「主が霊を満たした」からだ。
戦く・・・今まで想像もしなかった文字は「おののく」と読む。 戦争の最中で恐怖を感じない人などいないと思う。 思い切って逃げたい気分であろう。 だが逃げることは出来ない。 恐れる心を自ら叱咤激励鼓舞し、最前線に向かう兵士のことを思うとやりきれない。 そういう人たちが数限りなく命を散らした結果に、今の日本の平和がある。
そういう平和の時代においてさえ、私達は戦く場面がある。 人は生きている限り、困難から逃げられない。 だが我らには、御霊で満たしてくださる主がおられるではないか。 そのとき、何を恐れようか。 おそれる対象などこの世にないではないか。 唯一、我が内なる弱気こそ敵である。 敵は決して外部ではない。