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■ 1%を見られる神 / 士師記7:1~7 (2012-02-26)

物事の摂理を考えてみた。 例えば、物が多いと裕福に思えるし便利である。 一方、物が多すぎて片付けられない現在人も少なく無い。 既に片付け方が分からない人は非常に多い。 昭和20年から30年半ば、本当に物がなかった。 今との環境を見比べると、無いものだらけだった。 だが、物が無かったから別の喜びがあった。 人々の絆、付き合いは今よりはるかに濃かった。 子供たちの遊びも実にシンプルだったが、心は豊かだった。 そして今、物が無いということは良いことでもあると考えた。 人は足りないことで恵みを知る。 果たしてキリスト者は失ってみて、神さまの祝福を分かる、のだろうか。 だが環境を失って神さまが近くになることを、震災と原発事故後に思い知らされた。

ギデオンが主の臨在のもと、角笛を吹いたら32000人の仲間が集まった。 だが、主はノー、と言われた。 「あなた方は余りに多すぎる。あなた方は人間の力を誇り、自分たちの力の結果と考える。 だから、今からの戦いに対して、恐れおののく者はすべて帰らせよ。」 すると22000人が帰って行った。 確かに、である。 「主に栄光を!恥は私に・・・」と、言ったのはジャン・カルバンであったろうか。 そして私はつい思ってしまう。 『栄光は主に!・・・私にも多少の栄光を!いや、なるべく多くの栄光を・・・』 その思いが消え去らないのである。 捨てきれないのである。 私にも栄光を・・・誰も口で言うわけはない。 だが、ついついそんな思いが心をよぎってしまうのである。

敵は135000人もいるのに・・・残った1万でどう戦うのか? ギデオンの心に不安が波の様に押し寄せたであろう。 だが、主は更に仰せられた。 「泉の水を手ですくって飲む者だけを残し、犬の様に飲む者と、しゃがんで飲む者は帰らせよ。」

残った者は、たった300人だった。 主はギデオンが頼りとするものを全て削り取られた。 人間が依存するもの、そして自尊心、すべてを失ったとき、人は神だけに頼らざるを得なくなる。 300対135000、勝負は既にあったようなものである。 但し、そこに主がおられなければ!主を信頼する者がいなければ!の話であるが。

ギデオンの目に映った300人は当初と比べれば実に1%以下である。 しかし、1%が存在しているのだ。 神は1%で充分だといわれた。

1%を人はゼロに等しいと思うが、神は99%どころか、永遠無限大の方である。 確かに、この日本にクリスチャンは1%以下である。 だが、神が共におられる神の民なら、なんらの問題も心配も無い。 更に私達の心の中に1%の幻と夢があるとしたら、決してそれを無視してはなるまい。 神はその1%を見られ、無限の力を与え、栄光を現してくれるのだから。 栄光を現すべく、待っておられるのだから。

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