■ 勇気 / 士師記7:8~15 (2012-03-04)
クリスチャンになる前、「勇気」という言葉から直感したのは「度胸」でった。 そう、男は度胸、女は愛嬌の時代だった。 しかし、勇気と言うからには単に度胸に留まらない。 それは正しいと信じた道を真っ直ぐに進むこと、ではないだろうか。
勇気もへったくりも無かったギデオン青年であったが、神さまに名を呼ばれた時から彼は変った。 単に名前だけ呼ばれたのではない。「勇士よ!」と呼ばれた。 男なら誰だって、そう呼ばれたら一肌も脱いでやろうと思う。 しかし、事は簡単ではなかった。 命をなくすであろう戦争へのお呼びであった。
幾度かの試練を乗り越えたギデオンは遂に勇士となった。 しかし、300対135000の兵力の差は余りにも歴然であった。 勇気を振り絞って何が出来るだろう。 だが、今やギデオンは神を信じたのである。
その心中を察した主はギデオンに声を掛けられた。 『谷に降りて行き、ミデヤン人が何をいっているか、聞いて来るがよい。』 ギデオンは夕闇に紛れ、兵士一人だけを伴って谷を下り、陣営で休息していた兵士の話に聞き耳をたてた。 彼らは今しがた見た、不思議な夢の話をしていた。 「いいか、その夢は大麦の塊が俺たちの陣営に転がって来てな、この天幕を打ち倒し、ひっくり返したのだ。」 もう一人の兵士が小声で言った。 「それはな、イスラエル人、ヨアシュの子、ギデオンに違いない。神がミデヤン人をギデオンの手に渡されたのだ・・・」
ギデオンはそれを聞いた。 そして立ったまま、思わず神を礼拝した、と聖書は語る。 リビングバイブルは言う。 ギデオンは立ったまま、神を礼拝する以外のすべを持ちませんでした。
素晴らしい瞬間である。 キリスト者の何人がこれを体験したのだろう。 しかし時は今や21世紀。 同じシチュエーションはあり得ない。 だが、神に対する感謝と喜びの瞬間は同様に与えられるのだ。 いかに重く固い鋼鉄の塊の様な問題であろうと、神はそれを打ち破られる。 私がするのではない。 神が為されることを信じる。 それを信じるか、否かである。
だが、新約聖書が教える勇気はひと味もふた味も違う。 勇気が表現される形が異なるのだ。 だが、心の中は同じ勇気である。 神を信じるゆえの勇気である。 例えば、 1、 人間社会の中で輝く勇気がある。世の人々の中で、「あなたのために祈りますから」と果たして言えるか。真剣に言った人の証しが、アパ・ルームに掲載されていた。
2、 他の人がどう判断しようが、それを恐れない勇気がある。 パウロはどう仕様も無いとしか思えないコリントの教会を「彼らこそが、私の推薦状そのものである。」と言った。(第二コリント3章にある。)
3、 この世が知らない勇気がある。それはキリスト者においては素晴らしい価値、真の価値であるが、その価値観に生きる勇気。(第二コリント4章にある。)
4、 それ自体は常に隠れているが、実際はすべての基盤になっている勇気。例えば御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制である。(ガラテヤ5章にある。)
これらのどこに勇気が潜んでいる?ようく考えて欲しい。それらすべてを表現実行するために必要なものは、神が与え給うた内なる信仰が与える勇気である。勇気は形をそれぞれ変えて、他者へと及んで行くのである。