■ 不条理の谷で見る灯り / 詩篇22:1~8 (2012-03-11)

思えばこの世は不条理だらけである。 世界の平和、人々への平等等々、願った通りに行かないことが多すぎる。 ひたすら耐えなければならないときがあり、助けが見えないときがある。 絶望の二文字さえも感じられない厳しい局面がある。 人生の意義、生きる意味さえ見えないときだってある。 神を信じていたのに、その神さえ不在する空間があったのか、と疑うときだってある。

東日本大震災、丁度一年経った。 大地震、大津波、尋常ではない規模に唖然とした。 思考組織が混沌となった出来事であった。 人間の限界と無力に対し、大自然の猛威と強烈な力を、これほど思い知らされたことは無かった。 そして原発事故である。これは人為的としか思えない。 人間の傲慢が遂に破綻をもたらした。

改めて知ったことは、大自然の力を人類はすべて想定内に納めるべきであると感じた。 大自然が及ぼす可能性はすべて想定内にすべきと思う。 つまり、どんな天変地異であろうと起こり得ることとすべきである。 いかなる用心に用心を重ねたにせよ、十分ではないと考えることだ。 仮に自然の力による結果を想定外とするなら、それは人類の傲慢ではないか。 人は大自然の恩恵と脅威の中で生きることを許されているのである。 大自然を恐れることは、神を畏れることでもある。 故郷を離れなければならない人々には、三重苦が一気に押し寄せた。

詩篇22編、イエスの十字架の場面としか思えない言葉が語られる。 詩人は語る。 『わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。』

詩人はあきらかに呻いている。 助けは来ない。 神はどこにおられるのか。 先祖は神を呼び、神に叫んで救われたではないか。 だのに、この私には何ら助けもなく、完全に見放された・・・・どうして。

現実がこれほど厳しいとは・・・ 果たして神はいるのか、いないのか? 居ないとするなら、もっと諦めがつくではないか。 これが詩人の嘆きの原因である。

だが、私達は覚えよう。 神、もしおらずんば、この世に希望は無い! だが神はおられるのだ。 仮に私達が認めずとも、我が内なる霊と魂が神に向かって叫ぶ。 仮にこの命終わるとも、神はおられる。 ヨブは言った。 「神もし我を殺すとも、我、神を信ず。」ヨブ記13章15節

私達に訪れる困難は三つの方向から来る。 一つは大自然から。 二つ目は人為的な要因から。 三つ目は神の思い通りにならない我が内なる底から。

「心から神を信ず」という確信は、困難の極地、試練の真っ只中、希望がすべて絶たれたとしか思えない断崖の淵かも知れない。 頼るものが数あるうちは人間が真の信仰にありつくことは出来ないかも知れない。 だからこそ、今ある平安は本当に尊いものだと、つくづく身に沁みて思う。

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