■ 人が神を裁いた日 / マタイ26:57~68 (2012-03-25)

サンヘドリンという当時のユダヤ人による70人議会が裁いていたのは、生ける神の御子、 イエス・キリストであった。 彼らはイエスを死刑にするために、どんなこともした。 偽証する人を立てたが、死刑にすべく確たる証拠など出てこなかった。 状況証拠も無い。確証も得られない。 裁判の前に、死刑という判決を目指しているのだから、酷い裁判である。 21世紀の日本にだって、酷い裁判は幾つもあった。 証拠を捏造して犯人に仕立てれば、それで一件落着である。

イエスの前に立った大祭司は、イエスを見下ろして言った。 「よいか、わしは生ける神の名によって、お前に誓わせよう。お前は本当に神の子なのか?本当のことを言え!」

大昔からイスラエル人は「神」という名を口にすることを畏れていた。 だから「主」という代名詞を用いた程だ。 だが、大祭司は「生ける神の御名によって・・」と傲慢にも言い放った。 さすが大祭司である。 しかし、問題にすべきはその前の「生ける神」という表現である。 最大限の賞賛で神を表現しているが、生ける神というならば、畏れ多くもそれなりの言葉と表現に配慮されるべきものが必要であった。

この裁判は『感情が主役で、感情による審議と感情による判決、感情による裁判』だった。 もし、冷静な審議と弁護、判定がなされたら、イエスは当然無罪であった。 人間は感情の生き物であると思う。

感情は幾つもの感受性と行動性、そして深みといった性質を備えている。 喜怒哀楽といったレベルから始まり情動、情操は高次なレベルである。 そして「主観的な位置づけを為す」のも感情の働きである。 感情は人間から切り離せないし、切り離せるとしたら、人間ではなくなる。 それは実に美しく、それは残酷である。 悲しくもあり、美しくもある。 人の性質の中で、これほど稀で多面性をもつものは無いとさえ思う。

そして祭司、学者、群集、宗教者たちの憎しみと妬み、好奇心と怒りの感情が最高潮に達した。 「十字架だ!十字架につけろ!」の声は、ローマ総督ピラトの判断さえ蹴散らしたのである。 神は光りと闇を分け、陸と海を分けた。 空に光る太陽と月と星、それは美しく下界を照らし、温めた。 植物、動物、鳥に魚、大自然の恵みは彩と命を守った。 すべては完璧だった。 しかし、それらはあくまで創造の序曲に過ぎなかった。 本等の目的のために造られた背景だった。

神は言われた。 「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。」 神は何故、人を造られたのか? 第一に神は霊的に交わりができる存在を求めた。 そして人が自らの意思によって神を礼拝するように。 人が、その人生を通して神と生きるように、である。

生ける神は、そのようにして人間を中心に美しく完璧な被造物世界、この世を造られたのである。 そして今から約1980年前のある晩、人は生ける神の御名によって、神の御子を裁いていた。

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