■ あのとき、あなたはどこに居ましたか? / マルコ15章16~39 (2012-04-01)

私達すべては時間の世界に生きている。 時は刻一刻と過ぎて行く。今、という瞬間も過ぎ去ってゆく。 時間は命を育てつつ、やがて必ず衰えさせる力を持つ。 人も動物も成長し、おとなになるが衰えて行く。 自然界も同様である。 人が造った物も同様である。 例えば新車は乗らずにいても、やがては錆びて朽ちはてる。

この世に永遠はない。 いつか必ず、すべては崩壊するときが来ると、黙示録は言う。 しかし、唯一、永遠なる存在がある。 それは天と地を造られた神であり、その神を信じた人々である。

私達はその神、ヤハウェによって時間の世界に生きながら、永遠を掴んでいる。 それはクリスチャンが二つの命をいただいているからである。 時間に生きる世界は両親を通して神からいただいた。 永遠の命は、創造主ヤハウェから直接にいただいた。

聖書はおよそ4千年前から書き綴られた。 イエスは2千年前にお生まれになり十字架で死なれ、よみがえられた。 そして21世紀の今、私達は生きている。 しかし、私達クリスチャンは永遠の命が与える視線でイエスを見ている。 つまり弥生時代のお方の、み傍に居るのである。 弥生時代は縄文と古墳時代に挟まれたはるか彼方の過去である。 すごいというか、恐ろしいというか、まさに永遠の命の為せるわざである。 これはタイムスリップとは違う。

イエスの十字架がカルバリの丘に立った。 埃立つその場に大勢の群集が口々にイエスを嘲笑し、罵っている。 遠くで僅かな女性たちが泣き叫んでいる。 ローマ兵が傲慢な態度ながら、十字架の足元でイエスを見上げ、警護している。 イエスの両脇の十字架に架けられた二人の罪人がしきりにイエスに向かって、何か言っている。 大祭司や律法学者が小気味良さそうに端の方から見ている。 イエスは苦しみに顔をゆがめておられる。 そして私はそこに居た。 「そことは・・・・・」十字架刑の現場に、である。 あなたもそこに居たのである。どこに・・・・

信仰生活でいつも問われる言葉がある。 それは、「あなたはあの日、何処にいたか?」である。 「君もそこにいたのか」というゴスペルが聞こえ、ひしひしと迫るのは、まさにこの時期である。

パウロは言った。 「私はキリストと共に、十字架で死んだ。」 見事である。実にあっぱれである。 十字架で死んだ、と言い切るパウロの信仰。 彼は彼の罪と共に、イエスの十字架に架けられたからだ。 あそこで死なない限り、私達はきっとゾンビの様にこの世を徘徊しているのだろう。

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