■ 仮に心が燃えていても・・・ / ルカ24:13~32 (2012-04-08)

イエスがよみがえられた知らせは、女性たちや弟子達も信じられないことであった。 絶対に起こり得ないことが起こった。 だから誰一人、それを肯定的に受け入れられる者はなかった。 (受け入れられるのではなく、前向きに受け入れるべき時だってある。)

死者のよみがえり・・・ しかし、イエスは幾度もそのことが起こることを語っておられた。

エマオの村へ向かう二人の弟子、彼らの会話はイエスと共に長い時間を過ごしたことであろう。だが、彼らの関心は殺されたイエスへの懐かしさと絶望感であった。 そこまでは彼らはイエスと生きた当事者であったからだ。

道行く二人にイエスが加わった。 だが二人の目にはイエスだと分からなかった。 人間は実に限界多き生き物である。 「死んだ」という事実は、今見ている世界でも、今までの時間の中の思いでも、まるで別の景色しか見えない目にしてしまうのだろうか。

2人はイエスに関する出来事を回想する。 しかし、二人の立場は既に当事者から第三者へと移行していた。 それはイエスが最早過去の人となったことと、今朝方、女性たちが聞いたという復活の知らせが、どうしても彼らの現実の中で受け入れられなかった。

目的地が近付いたころ、二人の会話を遮る様なイエスの言葉があった。 『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。』

そしてイエスが旧約聖書から紐解いて話をされたとき、二人の心に変化が起こった。 まだ先へ行かれそうなイエスに何とか泊まって行ってほしいと頼んだ。 二人は第三者から当事者へと引き戻されつつあった。 イエスを囲んでの夕食のテーブル、イエスはパンを取って祝福し、二人に裂いて渡したとき、二人の霊眼は完全に開かれた。 見ている景色と霊的思いが重なった。 「主だ!」 その瞬間、彼らの前からイエスの姿は消えた。 「ああ、何と言うことだ。私達の心はあれほど燃えていたのに、なぜ主だと気がつかなかったのだろう・・・」

私達、今の時代に生きる者だって多々ある。 肉眼で見ていても、霊的悟りが伴わない。 それは人間とは肉眼だけで生きるものではないということの証明である。 特に信仰生活において、それは如実である。 肉眼で見た景色は神経的にも認識している。 しかし、人の霊性部分、深い思考部分をパスしてしまっている。 中味が伴って追いついて行ってない時がある。 聖書を読む際によくあることだ。 字面だけ読んでいるから、何に一つ、立体的に浮き上がって来ない。

熱心に教会奉仕、実に尊いことである。 他者への援助と世話、同様である。 しかし、熱心であるからと言って、イエスが見えないのであれば、やがて必ず燃え尽きる。 イエスは見ようとしなければ、必ず見失う。 また見失っても見失ったと言わない私達である。 だが、「見失った」と主に向かって叫べば、祈れば、良いのである。 主は再び、あなたの目の前に現れて下さるからだ。 熱心は尊いが神さまと生きる道は、熱心以上に謙遜、従順が良い。 人はどうしても先を行ってしまいがちだから。 私など毎日、イエスさまを置いて行ってしまっては引き戻されている。

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