■ 主は敗者の傍らに立つ / ヨハネ21:9~22 (2012-04-15)

イースターから幾日か過ぎたガリラヤ湖畔。 舟で漁に出ていた弟子達が岸辺に向かって振り向いた。 朝日に照らされたイエスがそこに立っておられた。

その朝、イエスに明確な目的があった。 それはペテロに対する主の慈しみ深い思いからだった。

十字架刑の前夜、「他の誰が主を否定しようと、私は決して否定しない。 主が殺されるなら、私も一緒に死ぬ。」と豪語したペテロだった。 そして他の弟子達も皆そう言った、と聖書は言う。

だがイエスが捕らえられ、取り調べられている夜、外の暗がりで焚き火を囲む人々にペテロに向かって女中が叫んだ。 「お前さん、確かにあの男といつも一緒だったよね?」 言われた瞬間、その言葉は最も鋭い剣となってペテロの耳に刺さった。 「何、言っとる。イエスなど俺は全く知らんよ。」 しかし、彼女は確信を持ってペテロに食いついた。 「いいや、確かにあんたはいつもイエスと一緒だった。わたしゃ、ちゃんと見ていたんだからね。」 そしてペテロは三度、イエスを否定した。 ペテロはその場を離れると、自分を責めて大声で泣いた。

ペテロは今、まともにイエスの顔を見られなかった。 これほどの気まずい空気を感じる場所は、新約聖書のどこにもない。 果たして、私達には全く関係ないことであろうか? もし今、私達の人生に同じシチュエーションが巡って来たとしたら、あの気まずさは絶対に他人事ではない、と思う。 何故なら毎日の生活の中で、私達はどれほどイエスを否定しているだろう、と思うからだ。

イエスと弟子達は魚を焼いて食べている。 弟子の誰一人、イエスに声を掛ける者はいなかった。 そして彼らは連れ立って歩き始めた。

イエスは一歩後方にいるペテロに声を掛けられた。 「ヨハネの子、シモン!」 その瞬間、初めてペテロは主を見やったであろう。 イエスは言われた。 「あなたは、どんな事があったとしても、無条件にわたしを愛するか?」 「はい、主よ。出来る限り、あなたを愛します・・」 その様な問い掛けは三度繰り返された。 ペテロは痛んだ。 痛んでいたペテロであったが、イエスとの直接なやり取りは彼にとって実に救われる思いであったろう。 「ヨハネの子、シモン!」親の名の下に自らの名を呼ばれたこと自体、それは敢えてペテロの実存価値を鼓舞する様だった。 「わたしの子羊を養いなさい。」 イエスは改めて、ペテロに向かって彼の働きの場を指示されたのである。

私はこれまでイエスを幾度も否定しては幾度も拒んだ者である。 それでも主は、私を諦めたり愛想をつかすことはされなかった。 主イエスの深く強く高い愛は、私をしてであっても現在のポジションに置かれたのである。 ペテロほどの悔悟と後悔の念を持ったこともなかったのに。 そして主は私に言われた。「わたしの羊を養い牧しなさい・・・」

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