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■ あなたは神の国にふれたことがありますか? / マタイ12:22~28 (2012-06-24)

聖書に「神の国」表現は61回登場する。 福音書には48回あるが、そのうちルカの福音書で大半の28回が語られている。 ルカの福音書はローマの高官に向けて懇切丁寧に書かれた(ルカ1章2節)。 つまり異邦人に対してである。 ここに神の国を否定したユダヤ人以外に向かって、幾度も説明する必要があったからだろう。

そして旧約聖書には一度として「神の国」表現は無い。 何故か? それはイエスこそが神の国を来たらせた方(若しくは持って来た)であるからだ。 イエスは「神の国」はもう来ている、と言われた。 「神の国」はあなた方のただ中に在、とも言われた。 すると、クリスチャンである私達は既に、「神の国」に触れたことがあるかも知れない?

触れるとは自分で実際的な体験をした、という意味である。 例えば長い間、断絶関係にあった人同士が互いを赦し、和解が成立するとしたら、 二人がキリストの赦しと愛の故に関係の修復を求めたとしたら、そこに「神の国」が来たとも言える。 「神の国」は先ず、赦しである。 赦しが無い関係と場所に、神の国は来る筈も無い。

次に「神の国」は私達が聖霊に聞き従うところに訪れる。 人が仮に自分の意思を捻じ曲げてでも、神に従う行動を取り得たとしたら、そこには既に「神の国」は来ている。 「神の国」は言葉だけではなく、神の力によって生きることである。とパウロは言った(1コリ4:19)

「神の国」とは、神の栄光が現れた場所又はとき、とも言える。 私達が神を信じる(信頼する、信じゆだねる。信用する)ところに、神は栄光を現してくださる。 死んだ兄弟ラザロは葬られて既に四日経っていた。 しかし、イエスはラザロの妹、マルタに向かって言われた。「その墓の蓋石を取り除けよ。」 マルタはそれを拒んで否定もした。「主よ、もう臭くなっておりますから・・」 イエスは彼女に言われた。 「もし、あなたがわたしを信じるなら、あなたは神の栄光を見る、と言ったではないか。」

カナという村で結婚式が開かれた。イエスも母のマリヤも招かれていた。 宴もたけなわになった頃、イエスは100㍑以上の水も入ろうかと思われる大きな水瓶六つを指差しながら、かの家のしもべ達に命じられた。 「その水瓶のすべてに水を満たしなさい。」 しもべ達は言われたとおり、水を満たした。 そしてイエスは言われた。 「さあ、今汲んで宴会の世話役のところに持って行きなさい。」 それを呑んだ世話役は大いに喜んで褒めて言った。 「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、後になって安い酒を出すものだが、よくぞ今まで取っておいたものだ。」 この場面、ことの事態を知っていた者は誰か? 理由も分からず汗を流し、桶で汲み上げ、大きな瓶六つに水を満たしたしもべたちこそ、神の栄光を目の当たりにした。

私達は自分が納得したうえで動くか? それとも主のご命令だと信じるから行動するのか? 「神の国」も「神の栄光」も自分を優先するところで、出会うことは無い。 「わけも分からず水を汲む者だけが、神の国を見る!」

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