■ 理性を踏み越えるべき時がある / ヨハネ6:53~66 (2012-08-05)

ヨハネ6:55~57節 『わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。』

と、イエスが語られたとき、イエスの弟子の多くが彼の前から去って行った、と聖書が語る。 「何というひどい話だ。とても聞いていられない。人の肉を食べ、人の血を飲むなんて・・・」 当然だと思う。 しかし、一歩下がってイエスの言われた言葉の全体を聞くならば、もう少し広い意味に解釈しても良かったのではないだろうか。

人間には理性というものがあり、常に心に働く。 素晴らしい機能である。 やはり感情に走り易い人より、理性を働かせる人のほうが好ましく思えるのは100人中100人であろう。 但し、である。 時として、理性には多少遠慮してもらって、信仰を働かせることは一理も二理あるのだ。

「信仰よりも理性が働くと、聖霊の働き場が減る」という考え方を、あなたはどう思うだろうか? イエスの言に対するとユダヤ人の対応を想像してみて、ふとそんな思いを持った次第である。 私はその道の専門家ではないので、あくまで理性という言葉の意味を辞書から拾ってみた。

理性とは 1、 感性よりも思慮を主体とする能力 2、 真偽、善悪を識別する能力 3、 超自然的啓示に対し、人間の自然的な認識力に頼る

というものだ。 いかがであろうか。

通常、「理性豊かな人」と言われれば、実に素晴らしい人間性と思われるだろう。 但し、ことクリスチャン信仰に於いては、あながちそうだと言えない部分がある。 聖書の記事は理性豊かな人にとっては、理解することに非常なエネルギーを要すると思う。 クリスチャンになったけど、余りに理性に頼り過ぎて、哲学に走ったり、神学論争に耽るこことを生き甲斐にしている人も少なくない。 でも、たまには哲学からクリスチャン信仰に向きを変え、良い働きをしている牧師もいる。 先ずは信仰が働き、聖書の言葉を受容して後、その後に理性が働けば最高なのかも知れない。 理性薄弱な私にしてみれば、実に天にも上る思いがする。

佐古純一郎という先生はこんな言葉を残しておられる。 「理性の最後の一歩は、世には理性を超えるものが無数にあるということを認めることだ。 それを認めるところまで至り得ぬとしたら、理性は全く薄弱なものだ。 理性は神の実在を認識することvが出来ない。 しかも人間の内部には絶えず神を求めて止まない何ものかが潜んでいる。 神は認識すべきものではなくて、直観すべきものである。」と。

思えば、イエスの弟子達12人は無学な人が多かった。 ガリラヤ出身の漁師であった。 理性よりも直観的にイエスを見、イエスと行動を共にした。 理性よりも感性、感情豊かに、人間としてイエスを見詰めていた。 四つの福音書は実にシンプルな生き様のイエスの三年間を、彼らが見た儘の目と心で描き続けた。 十字架で殺され行くイエスが背負った意味以外は・・・・直観的に見詰められた。 だが、イエスが3日目によみがえられた出来事は、イエスその儘を直視直観しなければ、決して己が罪に出会えない。

そして二千年間、キリストの教会は主の晩餐式を通して、イエスの裂かれた御体を象徴するパンを食べ、罪無き血潮を表す葡萄の水を呑んで来た。 文字通り、イエスと一体化なる人生と我を目指して。

『わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。』

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