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■ JESUS、JESUS,JESYS / ヨハネ4:46~54 (2012-08-12)

JUSUS、ジーザス、イエス、呼び方は違っても関係ない。
 大切なことはあなたの日々の生活と人生で、どれほど「この名」を呼んでいるか、である。
 

 

 日本人にとって「神さま」ということに何らの違和感はない。
 「赤んぼ」の時から日常茶飯事に聞いてきた呼び名である。
すると、クリスチャンでない人に対し、「神さま」という表現で話をしたとして、相手にとって特別な領域など感じさせはしない。
 相手の方は、こちらがクリスチャンだと知ったとき、初めて別の神さま?別の宗教かな?と思う程度であろう。
 

 

イエスは神である方なのに、人間と同じ姿をもってくださり、私やあなたの罪のために十字架で死んで3日目に蘇られた。
 彼は私達にとって実に身近な存在である。
 今、イエスを信じる私達にとって、イエスが友であり、主である。
そして彼は今も生きておられる。
 私達の生きるところ、どれ程の試練と苦しみに取り巻かれた環境であろうと、イエスは私と共に生きておられる。彼はあなたを見捨てず、あなたを離れない。
そう、イエス!とはっきり言って行くことは、あなたが誰を信じているかの信仰告白である。
そうすれば、キリスト教があなたの生きる領域になる。
 何となく茫洋とした神観ではなく、明確になってくるのだ。
 

ガリラヤ湖の北端の町、カペナウム。
そこに死にかかっている息子を気遣う王室に仕える役人がいた。
 彼は「カナという村」にイエスが宿泊しておられることを聞き、道程35キロを登って来た。
 役人はイエスの前に伏して、「どうか下って来て息子を癒してくれるよう」頼んだ。
しかし、イエスから出た言葉は、「あなたがたは印しと不思議を見ない限り、決して信じない。」であった。
 出鼻を挫かれる様な言葉であった。
しかし役人はめげずに食い下がる。
 「主よ、お願いですから、どうか息子が死なないうちに下って来てください。」
 何が何でも、イエスでなければならないと役人は腹に決めていた。
 

 私はここで、イエスが言わんとされたところを聞き逃してはならないと思う。
 「あなたがたはしるしと不思議を見ない限り、決して信じない。」
それは、「仮に印しを見ずとも、不思議を見ずともわたしを信じなさい。信頼しなさい。」である。
 現実的に、それが私達の信仰生活に多々ある場面なのだ。
そしてイエスは言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は治っている。」
 実に自分が試される言葉である。
 本当に、イエスの頭のてっぺんから足のつま先まで、彼を信じなければ、立ち去れない筈であった。
 役人の思いは「イエスが下ってきて、息子に手を置いて癒して欲しい。」ということだったからだ。
そして、彼はイエスの言葉を信じて帰路についた。
 家に帰る途中で、役人に吉報をもたらす為に上って来るのに出会った。
 

 息子が治った時間を聞いてみると、イエスが「あなたの息子は治っている。」と言われた時間と同時刻であった。
 役人の心こそ、私達に問われる「あるべき信仰者の姿」である。
 本当の信仰の姿は、局面に置かれたときに現れるかと思う。
しかし、イエスが求められる姿は、「仮に局面に置かれずとも、彼を信じる、信頼する」ではないだろうか。
つまり、何事もない様な時間の中で、私達の信仰は既に日々試されている、と思う。
ならば、「イエス、イエス、イエス」と言って生きて行こうではないか。
 

 

 

 

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