■ 主は生きておられる / 第一列王記17章1節 (2012-08-19)
8月17日から19日までの3日間、短い時間ではあったがゴスペルを歌う仲間と共に、宮城県の仮設所、教会を訪問できた。 非常に暑かった。そして仮設住宅は実に暑い環境だった。 仮設に住んでおられるご婦人達と昭和の歌を一緒に歌い、教会で歌われる歌を聴いてもらった。 小出しではあるが、クリスチャンが受けている恵みを共有させていただいた。 その中で、非常に嬉しい思いをいただいたことがある。 それは「命を失わなかったことを、今、大切に思っています。」という言葉だった。
家を失い財産や身近で親しんだ物も、愛着のこもった物も、懐かしい町や村の景色もすべて取り去られた。 仮に家族が無事だった人でもこの状態である。 本当に生きる目的も意味も失った。 長い時間が過ぎて、隣近所の人たちと仮設に入り、狭く、寒く、暑い住まいであるが、隣人との絆だけが、人々の生きる意識に大きな励みとなっている。 一年半経って、ようやく見えた小さな灯りだったのではないだろうか。 本当に人々は必死に耐えて、生きておられる。 それを思うだけで胸にこみ上げるものがある。
その場で何を語れるだろう、と考えたが、思いつかなかった。 仮にイエスさまであったとしても、失った家や家族のことは如何し様もないかも知れない。 でも、イエスさまだったら何かをしてくださったであろう。 そして人々の隣人の一人には、なれるかも知れないと思った。
宮城の教会では、賛美奉仕とメッセイジ奉仕を許された。 多くの傷ついた人々に今、何を語れるだろう、と考えたとき、唯一与えられたことは・・・ そう「主は生きておられる」ということだった。 厳しい試練、それも大自然がもたらした壮絶なテロの様な試練。 その中に置かれて信ずべきことは「主は今も生きておられる」という言葉である。 ここでしか、私達が元気を貰えるものはない、のではと思う。
新約聖書時代の今、イエスは死んでよみがえられた方。 黄泉の国の門戸を打ち破られよみがえられた主、罪の縄目と死に対し、永遠の勝利と救いの楔を打ち込まれたイエスは生きておられる。 それも私とあなたの心の中 その御名こそが、あなたと私の力であり、勝利である。 『この方以外には、誰によっても救いはない。世界中でこの御名の他には、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからである。」使徒の働き4:12節