■ 誰でもいつか、きっと良い地になれる / ルカ8:1~15 (2012-08-26)

人の心は多種多様である。 二人として同じ心の人はいない。 仮に似ていたにせよ、全く同じ心の人はいない。 イエスが話された種まきの話は、人の心に四つのタイプがあるとのことだった。 「聞く耳のある者は聞きなさい!」とイエスが叫ばれる程に、人間の耳は神の声を聞き逃している。

「気づき」、非常に大事なことである、 クリスチャンになって敏感に気づく様になった人は多い。 創造主がどれほど繊細に大胆に、すごいわざをなさっているかに気づくことは、被造物である我々にとって非常に重要だと思う。 被造物である恵みを知ったからである。 気づくほどに「神の力」に感心させられる。

悪い土地、と思われた心の人だって、自分の内側が石ころだらけと気がつけば、良い地に変わりたいと思う。 世の中のことや、生活環境のことばかりに気を取られていた人だって、本当に最後の最後まで自分を愛してくれるのは、唯一キリストだと悟れば、良い地に変えられたいと思う。

私の近隣に庭木や植木の手入れをする業者の方が住んでおられる。 この夏の暑い日、ジリジリを焼け付くような炎天下、或る場所で庭木の刈り込みをしていた。 すると、その家の隣の教会からアメリカ人の牧師らしい人が、冷たい水の入ったコップを持って来てくれて「さあ、どうぞ飲んでください。」と差し出されたそうだ。 それは何とも美味しい水だった、と彼は思ったが、あることに気がついた。 昔見た「ベンハー」という映画の一場面である。 熱く渇いた炎天下、十字架を担がされ、喉は渇き、倒れてはよろめくイエスの目の前に差し出した一杯の水の持ち主、それはチャールトン・へストン扮する「ベンハー」の手だった。 コップを教会の人に返しながら、彼はそのことを分かち合い、水を飲んだイエスの気持ちが分った様な思いでしたと話したそうである。 彼はクリスチャンではないが、心から「それを感じた」そうである。

人の心は神さまの前に様々な姿を見せると思う、 道端の様な心とは、 種(神の言葉)が落ちても何ら意に介せず、放って置いた。そしたら鳥がやってきて、種を啄ばんで飛び去った。 石地の様な心とは、 初めは喜んで聞いていたが根を張らなかったので、試練が来た時、すぐに身を引いてしまった。 イバラの地とは、 み言葉を聞くには聞いたが、この世に対する心遣いや富、快楽といった刺に塞がれて、実を熟するまでにならなかった。 良い地とは、 素直な心で神さまの言葉を聞き、それを守り、よく耐えて、実を結ばせた。 ここに「よく耐えて」と敢えて書かれていることを覚えたい。

以上は人の心の持ち方を大きく四つに分けた例である。 誰だって初めから良い地であったわけではない。 主の言葉を聞きながら、様々な局面に立たされ、神と自分に向かい合って生きる中で、良い地に変えられて行くのである。 その間には幾度、神さまの鋤や鍬が入れられたであろう。 その痛みに耐えられず、聞く側の立場から逃げてしまいたい、と思ったことだろう。 それでも、神の憐れみと慈しみを知った者は、逃げて行く場など無いのである。 仮に、もう一度この世に逃げ行く場を見出したとしたら、その人は初めから救われてなかったかも知れない。 若しくは、自分の心にイバラや石ころが有るのに気づかず、すべて他の物事や人のせいにしていたのかも知れない。

私達は皆、良い地ではない。 牧師であっても石地を見てしまう日がある。 己の心に刺を見てしまった日だって少なくない。 折角の主の言葉を、道端の心で処理してしまう時もある。 完璧に良い地など、イエスさま以外に無い。 それに気づいて、もう一度初めから出直そう。 私達にはいつだってそれが許されているのだから。

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