■ 私達を突き動かす力 / 使徒の働き8:1~8節と23節~40節 (2012-09-09)

原始キリスト教会は喜びと呻きが交互交錯し、若しくは一体になって襲って来た時代に置かれていたと思う。 そして使徒行伝を読む時に、「姿かたちが見えない方」の圧倒的な存在感を感じるのである。 存在感どころか、その方を認めずして使徒の働きの意味と記録は何も無い。 ある意味、キリストの弟子達はその力に引っ張られ、押し出され、呼び出された。

彼らを動かす力は二千年前のことであって、果たして今とは別世界のものなのだろうか? 否、そうではない。 今だって当時と変らず、その方は生き、動き、語り、働いておられる。 もし、そうでなければ使徒行伝が語ることは、おとぎ話でしかない。

私達を「突き動かす力」をクリスチャンは神さまから貰っている。 あなたがそれを信じまいと、その力を使うことがなかろうと、あなたに宿る御霊の力を認めねばならない。 求めずして、あなたが救われている証拠はない。 そして、やがていつかそれを認めざるを得ない時が来ることを覚えて欲しい。 あなたに訪れる悲しみ、苦しみ、試練の嵐・・・そういう時であろうか。 若しくは不思議を体験したときであろうか。

先ず、今考えていただきたいこと、それは「あなたの価値基準」が何であるかだ。 価値観、優先順位などというレベルではない。 その様な甘っちょろい表現で片付けられない。 あなたの人生、思想、生き方、考え方、そのすべてを支えているであろう、あなたの足元のことである。 その基準こそがキリストなる岩である。 キリストという、生きる岩の上に足を置かずして、生きているとしたら・・・。 それは砂の上に家を建てた人そのものである。

二つ目、人生とは「選択」の連続と言える。 思えば随分間違った選択を積み重ねてきたものだ、と思う。 だのに、今こうしていられるのは、主が守って下さったからだとしか、言いようが無い。 箴言14:12「人の目には真っ直ぐに見える道がある。しかし、その道の終わりは死の道である。」 所詮、人間とはそういう選択をしてしまっているのだ。 それでも滅びなかったのは、主の憐れみによる。

三つ目、あなたが「居るべき場所」は主の前しかない。 その場所こそ、この世で最も安心して生きられる場所である。 しかし、人は何と大きな恵みの場所を見失い易いものかと思う。 まさに、この世は誘惑の花園、楽園である。 だが幻想であり、神を見失わせる力をふんだんに持っている。 一番怖いのは、自分だけはキリストの前に留まっていると錯覚している人が多いことだ。 もしそれが牧師、教師だとしたら・・・・だが、それも現実であると思う。 牧師、教師たるものは最も重い裁きを受ける、言う聖書の言葉はいつも重い響きがある。

榎本保朗先生の書にこういう文章があった。 ガリラヤ湖を小舟で渡ったとき、突風で舟が転覆しそうになった時のこと。 弟子達は文字通り死ぬ思いであった。 しかし、一方でイエスは艫の方で眠っておられた。 「先生、私達が死んでも構わないのですか!」とイエスに向かって叫んだ。 その差は何か? それは誰によって、何によって支配されているかの問題であると語られた。 弟子達は風と波、自然界の変異に支配されており、イエスは自然界さえ支配される創造主の下にあった。

今日、自分がどこに生き、何を価値基準とし、何を選択し、誰の下にあるかを考えてみよう。

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