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■ 霊と誠を尽くす礼拝 / 詩篇66:13~20 (2012-09-23)

September 23, 2012

聖書が求める礼拝とは・・・霊と誠をもって捧げる礼拝である。
 礼拝する側が「気持ち良くなる」ことを求めるものとは、意味が大分違う。
 

 礼拝には幾つかの姿がある。
 教会などの群として行う礼拝。
 家族で行う礼拝。
 自分と主、1対1で行う礼拝。
いずれにせよ、神をたたえ、賛美し、祈り、感謝、そして主のことば(聖書)があるなら一人であっても立派な礼拝である。
 


 但し、上記の一つだけではいけない。
やはり個人、家族、そして教会の礼拝へと繋がらなければならない。
それが新約時代に相応しい礼拝者の姿勢だからだ。
 

 礼拝はクリスチャンの特権であり、当然であり、責任であり、義務である。
ここで義務だと言われて引いてしまう人もいるかも知れないが、そういった現代の柔(やわ)な方々には、もう一度礼拝の意味を学び直していただきたい。
 礼拝に行きたいから行く、する、のではない。
 個人の感情などは二の次、くらいに考えて欲しい。
 先ず、日曜は礼拝!と決めよう。に行くべきである。
 行けば礼拝自体が、必ずあなたに答えをくれると思うからだ。
 礼拝に行きたくても行けない多くの人たちのことを考えてみただけでも、行くことが出来る健康を神に感謝しよう。
 

 大昔の礼拝には、必ずと言える程に、生きた動物が連れて行かれた。
 礼拝者は祭壇の前で、動物の頭に手を置く。
そして神に罪の告白をなし、動物と自分が血と命を有するものとして一体化する。
 次に動物の上に刃物をかざす。
つまり動物は礼拝者の罪の身代わりとして、祭壇の前でほふられる、殺されるのだ。
 

 現代の私達の礼拝とは全く異なり、実に凄まじいものであり、己が罪の大きさを改めて思い知らされるであろう。
なぜ現代に動物の命と血が伴わないのか?
それはイエスが十字架において、罪無き子羊として血を流され、その命を贖いの代価として支払われたからである。
 

 

 詩篇66篇
 『私は全焼の生け贄を携えて、あなたの家に行き、私の誓いを果たします。
それは、私の苦しみのときに、私のくちびるが言ったもの、私の口が申し上げた誓いです。
 私はあなたに肥えた獣の全焼の生け贄を、雄羊のけ贄の煙とともにささげます。
 雄牛を雄やぎといっしょに、ささげます。』

 

 彼が主に何を願ったか、何を神に求めたか分からない。
ただ、非常なる決心を主に祈り、約束を祈ったのであることは想像できる。
そして今、彼は主がして下さったことに感謝し、その約束を果たすべく生け贄をたずさえて御前に進み出たのである。

そこまで切実に自分を追い込んで、そして神に詰め寄った信仰はすごいと思う。 文字通り、彼の生き様と信仰を彼が捧げる礼拝が「鏡として映し出している」かの様だ。そう、礼拝はあなたを映す鏡である。 私の34年間の礼拝に学んだ感想でもある。

 

 先ず、礼拝はあなたの今の心を映し出す鏡となる。
 次の日曜の礼拝でそれを確認していただきたい。
 二つ目、礼拝は今のあなたの信仰を映し出す鏡となる。
 三つ目、あなたの今の霊性を映し出す鏡である。
 四つ目、あなたのクリスチャン生活を映し出す鏡となる。
 最後に、今のあなたの人間性を映し出す鏡である。

 

 何故、鏡になるのか?
それは礼拝の主導者であられる方が、唯一生きておられる神であるからだ。
イエスは言われた。


ヨハネの福音書4章
4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 

 

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