■ よくなりたいのか? / ヨハネ5:1~25 (2012-10-14)

ベテスダの池、ときたま動く水面に(間欠泉か?)人々の熱い視線が注がれていた。 水面が動いた瞬間、一番先に水に飛び込んだ人は癒されると信じられていた。 色々な病をもった人々が列を作って並んでいたが、そこに38年間もの間、床に伏せった足のなえた男性に疲れた表情が見てとれた。 イエスは彼に声を掛けられた。 「よくなりたいか。」 私は34年間、その言葉を不審に思っていた。 何故なら、よくなりたいからこそ、来る日も来る日も、水面を見続けていたからだ。 なのに、何故イエスは敢えて、そう言われか。 分かりきっているのに・・・・

男は言った。 「私が行こうとすると、誰かが私より先に水に入ってしまうのです。」 当然であった。 仮に一番前に居たとしても、立ち上がれずに寝ている彼よりはいち早く、誰かが飛び込んでしまうのだろう。

そして大事なヒントがここにあった。 それはイエスが言われたあの言葉の意味である。 「本当によくなりたいと思っていのか?」

こう考えられる。 あなたは本当によくなりたいのか? それとも水に入ることなのか?

余りにも長い時間臥せっている男にとって、唯一残された希望の課題は『動いた水に一番先に入る事だけ』という信仰であった。 古今東西を問わず、人間が何でかんでも宗教としてしまう要因がここにある。 つまり、こうすればこうなるという理論である。 新しい宗教の始まりは、すべてこうである。 それは人間が考えた構図であって、本当の神にとってそうではないからだ。

それをしてもそうならない。 これをしてもこうならない。 そうやって何かをするのではなく、神の言葉を信ぜよ、である。 ここの所で人は何故目が覚めないのか、である。

どんなに良い人になったとしても、それによってそ人の魂が救われることにはならないと聖書は語る。 反対にどれほど悪い人であっても、イエスを信じたら救われると聖書が言う。

イエスは男に言われた。 「起きて床を取上げて歩きなさい!」 すると男は直ぐに直って、床を取り上げて歩き出した。 実にシンプルである。 考えてみると、「良くなれ」でもなかった。

これが神のなせるわざであった。 何をすれば、ではない。 主イエスを信じれば何かが起きる!のである。

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