■ 煮豆か神か・・・ / 創世記25:20~34 (2012-11-04)

時として「死ぬほど腹がへる」のを覚えたことは、誰にもあるだろう。 ふらついて倒れるほどに。 エサウはそういう思いだった。 ふと見ると弟のヤコブが料理をしていた。 良い香りがする。たまらずヤコブのそばに行った。 「おい、それを一皿くれないか。腹がすいて死にそうなんだ。」 ヤコブが横目で見ながら言った。 「いいよ、兄さん。その代わりあなたの長子の権利と引き替えにするなら。」 「分かった、いいとも。そんなもの、今の俺には何の意味もない。」 そして、エサウはヤコブの煮た豆料理を受け取ると、ガツガツと口に運んだ。 その瞬間、祖父アブラハムに約束された神の祝福と契約は、エサウの手から漏れ落ちた。

たかが一杯の煮豆で家督の権利と祝福を投げ打ってしまったエサウという男。 彼自身そのものは実に愛すべき男であった。 豪快磊落。そんな彼を愛するのは父のイサクであったが、母のリベカは反対に好まなかった。 祝福に満ちた家庭は、その時既に取り返しのつかない大きな岐路に置かれていたのである。

一杯の煮豆、それは目に見えない価値あるものと、いとも簡単に入れ替えられた。 人間が好むこの世的な感覚、感性、欲望。 だが、神が求められるものは、そういうものではない。 エサウは、その様な感性を持たなかった。 食欲を満たす目の前の料理のほうが、目に見えない神よりもはるかに価値あるものだった。 人間の弱さは今ある欲を満たすことであって、理屈めいた未来のものではない。 若さと言おうか、未熟と言おうか、エサウは余りにも単純に間違った選択をしてしまった。 彼の思いと短絡的に口から走り出た言葉を、神は聞いて見ておられたのである。

クリスチャン生活に多々ある場面が、これと似たものであると誰が思うだろう。 私達が大して考えもせずに選び取っているのは、文字通り「煮豆か神か」の重い選択でもある。 もし選び取る際に、自分の欲を神の利益よりも優先するなら、それは煮豆を選んでいる。 私がそれを欲しいから・・・ 私がそれを望むから・・・・ 私がそれをしたいから・・・ そう、私達は深く考えもせずに自分の欲望、つまり煮豆を選んでいる。

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