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■ 窮極たるは血 / 創世記27:22~41 (2012-11-11)

November 11, 2012

旧約聖書時代、実に世界は広かった。
それだけ人間社会は民族が孤立して生きていたということである。
 部族の違いは、まるで外国人並みだった。
アブラハム達、中東の片隅で生きていた人々にとって、先住民はまるで異邦人だった。
 生き方、考え方、暮らし方、まるで別世界の様にしか目に映らなかった。
つまるところ、信用し合えなかったのである。
 

その際に一番頼りにすべきは、「血」である。
 血筋、これが最も信用できる材料であった。
 彼らは血族結婚を求めた。そして自然と血は濃くなった。
 文字通り「窮極は血」であった。
 

 血筋の中で群は部族となり、更には民族となり、そして国となって行った。
これが旧約聖書である。
 神が選ばれたアブラハムとの契約は、その一人の男性から始まり、やがてはイスラエルへと発展して行った。
アブラハムと神の契約は、血筋、割礼という条件から、律法へと移った。

 

アブラハムへの祝福は子孫へと継がれて行った。
その子イサク、そして長子のエサウへと。
そう行く筈だった・・・・
 だがある日、長子の権利は長子エサウから次男ヤコブの上にスルリと滑り落ちた。
それは実に狡猾で姑息なやり方であったが、イサクはヤコブの料理とぶどう酒を口にし、その後に祝福の祈りをした。
 仮に如何なる人間的な作為と魂胆が入り込んだにせよ、誠実に祈った言葉と宣言は神の前から引き下げることは出来なかった。
 数分の後、ヤコブの偽りが暴かれたとき、イサクは体を震わせて自分の過ちを恐れた。
 

そして私はここにイサクの存在する意味を改めて知った。
 祖父アブラハム、そして孫ヤコブ、二人の圧倒されるような存在感に挟まったイサクという人。
 実に影の薄い人だと思っていた。
しかし、エサウに与えるべき長子の祝福の祈りは騙されたにせよ、やり直さなかったイサクの信仰を見たとき、神の前に圧倒されるような一人の人間の生きる姿を垣間見た。
 

 主に向かって心から祈った誓いと祈りは決して取り戻せない。
 身が引き締まる思いであった。
そこに血の契約(ささげものの生きた血)を結んだ人間の側の立つべき場所を見たからだ。
 

クリスチャンの窮極たる立地点、それも「血」である。
 但し、生ける神の子、イエス・キリストの一点の罪無き血潮である。
 教会、礼拝、交わり、教団教派、様々違いがあるとしても、それらを結ばせるのは唯一「キリストの血」である。
それ以外に我々が「神の子供」たる事実は見当たらない。
つまり、キリストの血の注ぎと十字架の血の贖いだけが、私達の拠り頼む究極の救いの事実だからだ。
 新教と旧教、プロテスタントとカトリック、西方教会と東方教会、浸礼と滴礼、さまざまに対峙しているとして、言い訳と異論のすべて黙らせるのは「キリストの血によって罪洗われ、清められた一点だけ」である。
 

 

 

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