■ ひたすら歩む道 / 申命記31:1~13 (2013-01-06)

年の初め、最初の礼拝に想うこと、そして必ず胸をよぎるのは申命記の最終章である。 ヨルダン川の向こうに横たわるは、夢にまで見た約束の地カナンである。 荒野をさ迷うこと40年、イスラエル民族100万は苦難の果てにようやく今、ここに辿りついた。 神が下さった地はどんな土地か、敵は?天候は?地形は?おそらく不安でいっぱいだったかと思う。

私達の前に広がる一年365日、つまり8760時間。 何が待っているのか、何が起こるか?分からない。 イスラエルは信じた神の導きによりヨルダン川に足を浸した。 私達はインマヌエル、キリスト・イエス、文字通り「神共におわします人生」へと歩を進める。

年の第一回礼拝の招詞は申命記11:11~12である。 『しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。 その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。』

山と谷は多いが天からの水で潤っている、と書いてある。 私達の人生にも山谷がある。 超えられない山と考えるか、もしくは霊的な恵みの高さと考えるか。 谷とは試練であろうか、それとも一人になって神と対峙するときなのか? しかし、「そこは・・・」天の恵みで潤っていると書いてある。 決して渇ききった砂漠ではない。 困難も試練もあるだろう、しかし主の恵みは満ち満ちている。 なによりも、「その地は主が顧みられ、一年中主が見守っておられる」からである。

年頭の導きを三ついただいた。 先ず「ひたすらこの道」に生きること。 それはキリストという真理の道であり、いのちであり天に至る道である。 大昔、イエスの弟子達が呼ばれた「この道の者」とはキリスト教、教会、が生まれる以前にクリスチャンたちについたそれは蔑称である。 彼らの生き方と考え方、そして行動は、あきらかに当時の世にあっては異端と思えたから、そう呼ばれたのである。 そう呼ばれることを目指すというわけではないが、キリストを目指すと、ついついそういう生き方になってしまったのである。 つまり、「キリストのもの」という生き方である。

二つ目、クリスチャンは「ひたすら求道者たれ」である。 日本の教会は、定期的に礼拝に集う一般の人達を求道者と呼ぶ。 でも、その呼び方は教会の傲慢ではないか、と考えた。 もし、そう呼ぶとしたら、自分たちは何者なのか? 完成した者、とでも呼ぶのか。 それとも熟練者?到達者?。 否、私達こそ求道者だと思う。 キリストの道以外に、救い、真理、命の道は無いと確信したからこそ、「その道」をひたすら生きるのである。

三つ目、「ひたすら、あなたの個性を生かそう」である。 私達は似た者同士になる必要などない。 折角個性を持って生まれてきたのに、それを失うのは残念至極である。 個性には弱点も欠点も、そして長所も混在している。 自分の欠点とか弱点ばかり気にして、どうして信仰が前向き、建設的になれるだろう。 それよりも自分という人間の何が個性なのか? そしてその個性を神が与えてくださり、今日までを共に生きてくださった。 こんな人間でもイエスが一緒だから、イエスはきっと私の個性を更に磨いてくれる。 弱点や悪いところはイエスが何とかしてしてくれるし、彼を信頼して従えば良いではないか。 ピリピ1:6には「私達の内には良い働きを始められた方(聖霊さま)がいて、キリストの日まそれを完成してくださる」とある。

旧約聖書から開いて読んで行くと、何とユニークで個性ある面々は生き生きと輝いていることか。 人々は苦しみと涙の谷を味わい、霊的高嶺も神の声を聞く山にも登った。 モーセは民と一緒にヨルダン川を渡れなったが、ちっとも凹んでいなかった。 ピスガの頂で北はヘルモン山からシナイに至るまでを見渡しつつ、彼はそれらのはるか上に座する神の国を見たのかも知れない。

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