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■ 今日は恵みの日、今日は救いの日 / 第二テモテ4:1~5 (2013-01-27)

クリスチャン生活においても、実生活においても共通して有効利用出来る考え方がある。 特に取り上げる程でもないが「諦めてもいい・・でも諦めない。」という言葉である。 仕事でも信仰生活でも、肩にエモン掛けをいれてしまいがちな場面は少なく無い。 必要以上にテンパってしまい、取り組む課題そのものよりも、緊張感自体で参ってしまうことだってある。 オリンピック選手など特にそれが顕著に現われているし、他のスポーツ選手にも同様に当てはまる。 別にオリンピックに魔物が住んでいるわけではなく、自分の中のプレッシャーと緊張感が過度に掛かって、普段着の競技が出来ないからだ。

しかし、クリスチャン達だってオリンピック選手の100分の1ほどにせよ、普段から肩こりが慢性化しているのではと思う。 それは「こうでなければならぬ。」とか、自分がイメージした理想や姿勢という結果にだけ目が行ってしまい、今目の前におられる「あの方」を見失っているからだ。

ところで、礼拝の最中に眠れる人はリラックスしているからとは思わない。 その人たちは疲れているか、自分を諦めているか、聖書に興味を失っているか、のいずれかと思う。 だって、生きておられる「あの方」の面前で眠れるとは、何と神経が太いというか、過労なのか、何れしかない。 私の経験からいうと、メッセイジに神経が集中出来ないときか、つまらな過ぎるとしか思えずに、投げやりになっていたとき、眠くなったものだ。

リラックスとは柔軟性があり、好奇心があり、受容性があり、向上心が有るときだ。 「諦めてもいい・・・でも諦めない。」とは、柔軟であり、取り組む姿勢にまだ余地がある。 自分を追い込んでもいないし、前向きである。 なぜなら、すべてpossibleな親方イエスがついておられるから、結果は親方にお任せして、今出来ることをやったるぞ、である。

福音伝道にはそういう余裕も必要だし、他者にも自分に対してもそういう思いを持つと長持ちするものだ。 そうするとイエスに真向かう心にも行動にも余裕が出来る。 何と言っても我々は「永遠なる方」とのお付き合いなのだから、今日明日の一発勝負ではない。 宇宙よりも大きな創造主であるのに、この世で最も小さいとも思える「辛し種」の中にさえ命を保存してくださる御霊なる方だから、私達の狭量でチッポケな心の計りで見積もってはならない。

そういう大きくてゆったりと、遍く働いてくださる方の御言葉に向かい合うにはどうすべきか? 大切なことは、私達が内受した聖霊の力に頼ることである。 「人の霊性こそが、御霊なる神のことばに呼応する。」実にそう思う。 そこに神さまと私の交流、聴く、問う、従う、導かれる世界が浮き上がって来るのだ。 そこにこそ、自分一人でテンパって生きるのではなく、主の御介入と協働を求める余裕が生まれるのである。

第二テモテ4:2 『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。』 長い長い取り組みであり挑戦である。場合によっては10年、20年のスパーンを覚悟すべき時だってある。 絶えず思い続け、委ね続け、息をし続ける、続けられるべき主への奉仕である。 だからこそ、「諦めてもいい・・・でも諦めない。」なのである。

仮に自分を芯まで知ってしまったら、おそらく誰だって嫌気が差す、諦めざるを得ない、となるだろう。 そうならないとしたら、あなたは幸せ者だし、神さまに感謝しよう。 しかし、こんな自分でもイエスさまが「わたしは、あなたが本当に必要なんだ!わたしと一緒なんだ!」と呼んでくれたのだから、 腹を括って漕ぎ出そう。 小舟だって構わない。 嵐が来ても想定内。 主イエスが眠っておられるにせよ、OKだ。 「主イエスが私と一緒に今、此処におられるからすべてオーライ!」これ以上に大事なことなど、この世には無い。

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