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■ 受難週その入り口 / マタイ21:1~16 (2013-03-03)

ユダヤにおける安息日の翌日、イエスは雌ロバにまたがってエルサレム入城を果たされた。 イエスの乗られた雌ロバの後から、子のロバがトコトコと母ロバついて歩いて行く。 実に微笑ましく平和で温かく、心穏やかにされる景色であった。 もしそれが有史以来、世界中で画かれた「従順をテーマ」とする様々な画があるとしたら、その画以上に、すべての人々に訴えるべく優れたものは無い、と言える情景であったろう。 そして、その入城は「主の受難」の幕開けでもあった。 イエスは権力者としての王ではなく、人類すべての罪を自ら背負って贖いの勝利を得るべく主のしもべとして、凱旋の入城をされたのである。

それを見た人々は誰彼となく、ロバに乗られたイエスに向かい、ホサナ、ホサナと囃し立てて叫びながら、着ていた上着や棕櫚の葉を道に敷きつめた。 『群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」マタイ21:9

だが、それは果たして人々の真意から出た行動だったのだろうか? そうではないと思う。 それは千年もの遠い昔に書かれた旧約聖書の預言の成就そのものだった。 詩篇118:26~27  『主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。 主は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。』 イエスの凱旋、それは確かに間違いではなかった。 一見して、敗者にしか思えない主のみ姿が、その後の人類にとって輝かしい勝利の王に結びつくとは、人間誰一人として想像しなかった。

イエスは弟子の一人によってその身を売られ、イエスを憎む者の手に渡された。 挙句の果て、殆どの弟子はイエスを見捨てた。 確たる証言さえ彼は得ることが出来ず、一方的なスピード裁判により十字架刑判決は下された。 唾を吐かれ拳骨で殴られ、鞭で打たれ、皮膚は破られ、肉は剥ぎ取られた。 太い釘で十字架に打ち付けられ、そして槍でとどめを刺された。 彼は極めて悪質な罪人として殺されたのである。 21世紀に生きる私達が手を下したわけではない。 しかし、彼の十字架の上にわが罪を見てしまうのは何故か? それは私が彼によって救われたからである。 それしかない。

イザヤ53章は語る。 『だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。』

そう、誰一人想像しなかったこと。 彼こそが誠の勝利を手にした王であったとは。 あの日、安息日の翌日、雌ロバに跨ってエルサレム神殿に向かわれた方こそが、誠の勝利を勝ち得ていたことを。

ロバに腰掛け進んで行かれる後姿は、天の父に従うみ姿そのものである。 私達が従順になれないとき、彼の姿を思い起こそう。 瞬間的であれ、不遜な思いが心をよぎり、容赦ない言葉が発せられようとしたとき、あの後姿を思い起こそう。

言葉でなく勝ち誇ったパフォーマンスでもない。 静かに優しく・・・・・彼は人々の大げさな囃し言葉を意に介せず、黙々と入って行かれた。 彼の見ておられた景色は5日の後、確実に訪れる十字架上の自分だけであったのかも知れない。

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