■ 景色は変わるものです / マタイ20:1~16 (2013-04-14)

私は毎日曜日、教会から帰宅する際、夕暮れ時に眺める遠方の山々や雲の色が好きだ。 高速道路を運転する最中なので、当然であるがチラチラと見ることしか出来ない。 季節により雲の姿は色も形も多彩を極めるし、ぐるりと取り囲む山の姿に癒される。 ある地点では富士山の稜線と手前の山の稜線がぴったりと重なっていた。 しかし、私の車が走る位置と向きが移動するに従って、手前の山も移動してしまう。 どこかへ移ったわけではない。 つまり、私の居場所が変ったので、そう見えるだけである。

私達の人生にイエスが介入されたとき、この人生の景色が変わった。 人生そのものの景色は同じでも、神さまをお迎えしたので、私の目線と位置が移動し、景色が変わったのである。

主イエスのぶどう園のお話。 忙しい収穫期、葡萄の取り入れには労働者が欲しかった。 ぶどう園の主人は朝早く、町の広場に行くと、そこにたむろしていた人々を、一日1デナリの約束で雇った。 (当時の労賃、1日1デナリといっても、決して贅沢が出来る額ではなかったらしい。) 朝九時になると主人は出掛けて行って、同様に労働者を雇ったが、主人の口からは「相当のものを上げるから。」だけであった。 主人は更に12時、3時、遂には5時にも出掛けて行き、人々を雇い入れた。 その際には、主人は特に金額に関して言及しなかった。

そして陽が沈む頃、主人はしもべに言った。 「一番後から来た者達から順に1デナリずつ渡してあげなさい。」 誰もが先ず、納得の行かぬ結末である。 早朝から汗を流し、熱い昼間を通して働いた者達の気持ちを踏みにじる様な場面である。 早朝から働いた労働者達が怒り出すのも無理はなかったが、主人は彼らに言った。 「私があなた方にした約束を果たしたことが気に入らないのか? それとも私の気前が良いので、あなた方は腹をたてるのか?」 なぜ、後から来た者たちが先になったのか? それが信仰生活の醍醐味?かも知れない。

教会への奉仕、主に仕える奉仕、様々ある。 忙しい人はい一日中、忙しい。 タラント、賜物のある人程忙しい。 また当然、そうでない人もいる。 それでも同じ天国?報酬? そう、なのである。 それが神の国の不可思議なところである。 だからこそ、私などが救われたのかも知れない・・・という見方をすればなるほど納得が行く。 問題はどういう景色を見ているかである。

昔、ある先生が言い残してくれた。 『私達はこの世の報酬、つまり商業主義的倫理で神の国を判断してはならない。 それは報酬ではなく神からの愛と恵み、つまり恩寵である。』と。

私は凡そ25年以上前であるが、日曜日は毎週多忙を極めた。 早朝は教会付属幼稚園の父母に対して聖書の話をした。 それが終ると成人科の教会学校教師である。 そして礼拝が終ると夕方からは信徒訓練のリーダーであった。 また水曜夜は祈り会のリードであった。

しかし、自分が云々ではなく、イエスさまからも教会からも頼りにいるからだ、と信じて疑わなかった。 もしかしたら、他の奉仕者が居なかったからかも知れない。 とにかく用いられること自体が恵みであり、感謝だった。 私の様な者が、そう思えたことに感謝であるし有り難かった。

だが、大切なことは私達ではない。 私達如きの者を雇って下さった主人、つまり天の父である。

主は実に気前が良い。 想像できない。 現在牧師職に留まらせていただいているが、素晴らしい牧師にはなれないし、目指すべくも無い。 しかし、「素晴らしい主を語るメッセンジャー」でありたいと思う。 ソング・リーダー、奏楽、そして信徒の人々も、「素晴らしいそれぞれ」を目指す必要など無いと思う。 目指すべきは、素晴らしい主、素晴らしい神さまを歌い、賛美し、一緒に生きる者を目指すべきと思った。 そうすれば『能力に拠らず、権威に拠らず、わたし(神)の霊によって・・・』(ゼカリヤ4:6)と、なるのだから。 偏った見方で全体を見ないで、そこに居て下さる主を中心にした景色を見ると良い。

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