Please reload

最新記事

■ あなたの1タラントはどうなっていますか? / マタイ25:13~30 (2013-04-21)

April 21, 2013

神さまはすべてのクリスチャンに「或るもの」を委託された。
 私達は「それを」如何にして増やし、豊かなものとして、主人なる神にお返しできるか、を問われているという例話がある。
ここで「タラント」と称される物は、お金である。
1タラントは6千でなりと言われる。
1デナリは一日分の労賃、つまり6千日というから、中々どうしてバカに出来ないお金であった。
 

 主人はある日、しもべ達の能力に応じてお金を委託して旅に出た。
1人には5タラント、別の一人には2タラント、三人目には1タラントであった。
 彼らは早速それらを資本にして運用し、効率よく増やし倍にした。
しかし、1タラントを預かった僕は地に穴を掘って隠しておいた。
なぜ彼が地に隠したのか?
もしかしたら他の二人と比較して、自分はたったの1タラントということに、腹が立ったのかも知れない。
やがて主人が帰ったとき、先の二人の報告を聞き、大きく増し加えた結果に心から喜び、二人に対しそれらを与えた。
しかし、地に埋めておいた怠惰な僕に対しては怒って、それらを取り上げ、沢山持っていた者に渡して言った。
 『誰でも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は持っている物まで取り上げられる。』(マタイ25:29)
 

 私達にはそれぞれに、神さまから預かったものが有る。
 均等に考えるとするなら、先ず身体、そして時間がある。
 個人的に違いがあるとすれば環境、能力、財力などの賜物がある。
また、或る人には持って生まれた特別な才能があるだろうが、比較してひがむ必要は一切ないのである。
 問題は、それらを如何に活用し用いて、主人である創造主の期待に応えるかどうかである。
 

 私達はいずれ、この世を去って行く。
この短い人生で、どの様に生き、どの様な足跡を残したかを神が問われているというのだ。
どれだけ長く生きたか、ではない。
 

 昔、パスカルが言ったそうだ。
 「信仰は賭けである」と。
つまり、「信じるということは、或る意味、結果は不確実であるが、神を信じる故に神に賭けるのだ。」である。
 確かにそうかも知れない。
 

でも本当は、主が私達に賭けておられるのではないだろうか。
 私は時として、そう思うことがある。
それは、創造主は大損を承知で賭けるギャンブラ-ではないだろうか?
 負ける可能性は大なのに、懲りずに賭け続けておられるように思えて仕方がない。
そして、賭けの対象は私達である。
 賭ける要因は「彼にせよ、彼女にせよ、きっと素晴らしい働きをしてくれる筈だから、彼らに賭けてみる・・・・」
 私はそんな気がしてならな。
 

1タラントをどう生かすか?
 大方のクリスチャンは委託された人生と身体を、尊く用いて増やしていると思う。
 願わくは自分こそがタラントを穴に隠している者でない様に・・・
取り上げられて地団太踏んで悔しがる男の様にだけは、なりたくない。
たとい僅かなタラントであっても、生き方によっては100タラントにさえ増やせるのだから。
 

 信仰とは使えば使う程に大きく育つ。
それ自体が神からの賜りものだからである。
この世の物は、使えば減る、使えばなくなる、使えば古くなる、使えば汚れる、使えば壊れる物ばかりだ。
 人間が造ったものとはそういうものだ。
 神から委託された信仰とは、使えば輝き、使えば元気になり、力づく。
もう一度、これらを考え直そう。
 『信仰を持たない(使わない)者は、それを取り上げられ多く持っている者(使っている)に与えられてしまう。』
 『それは神のもの』だからである。
 

 

 

 

 

 

 

Please reload

ソーシャルメディア
タグから検索
Please reload

アーカイブ
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square

© 2016 by Choufu Minami Crist Church . Proudly created with Wix.com

  • Facebook Social Icon