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■ 主、我を選び給う / 第一コリント1:26~31 (2013-06-16)

弱きものよ、   汝(なんじ)は人なり
無に等しきものよ、汝を呼びたるは 我なり
知恵なきものよ、 我 汝を友と呼ぶ
罪多きものよ、  汝(な)が為に 我 死にたり
疲れたるものよ、 我 汝(なんじ)の為によみがえり
愚かなるものよ、 我 汝と共に生きるなり
人よ、我 汝を選び給う・・・
 

上記の言葉において前に位置する言葉は、すべての人間を象徴しており、後続文主である。
 旧約聖書、新約聖書が語るところを端的に文語体で表現してみた次第。
 神は各も人を愛しておられる。
そして人間とは各も弱く欠け多く、愚かなものである。
 愚かとは自分中心にでしか生きられないという意味である。
 当然である。神と人を比べればこれほどの違いがあり、それでも歩み寄って下さった主の憐れみを認めざるを得ない。
 

 人は神を認め、より謙遜に生きることが人生に幸せをもたらす。
 人間本来の生き方を知るには、神と神の言葉に頼ること以外にない。
 水は低きに流れる如く、神の油(祝福)は低き(謙遜)に訪れる。
こういうことを考えていると、己の高慢、傲慢を認めないわけには行かないのが悲しい。
 悲しいと感じるところにまだ救われる可能性があるということだろうか。
 

AD50年代、コリントの教会に書き送られたパウロの手紙。
その後2千年近くに及んで、その手紙は素晴らしい教訓を後世に与え続けた。
 弱き教会、情けない教会、つまりコリント人への手紙を読んで、ついつい我が身を重ねてしまう教会は山とあったであろう。
だが、そこにこそ聖霊が働かれるのである。
 単にコリントの教会を非難し他人事としか捉えられないなら、そういった教会は完璧を自意識としているか、若しくは神の恵みに対し、自らを遠ざけた教会と言えるだろう。
 

 私達はコリント人への手紙から、神の憐れみと寛容が如何に大きいかを学ばされる。
 同時に我が身に対する神の忍耐と赦しを覚える。
 

 誠に主の憐れみ、豊かに我を包み足り・・・である。
イエスは十字架で我が罪を負うて下さっただけではない。
 今も教会、信徒達に対して豊かな愛と限りなき赦しを施しておられる。
 仮に、もしそうでないとしたら我々は一日たりとも、クリスチャンでいられる筈がないのである。
 

 

 

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