■ あぁ・・・そうか / 第一コリント3:1~8 (2013-06-30)
信仰生活でつくづく感じる瞬間がある。 「あぁ、そうか・・・」つまり何かを納得させられた瞬間である。 聖書の言葉に関して、神の御旨を知らされたとき、何とも言えぬ感慨深いものが胸に込み上げるのだ。 その様なとき、信仰生活と教会生活が出来ることは実に幸せなことだと思う。
なぜコリントの町にキリストの教会が生まれたのか。 およそ似つかわしくない町に、なぜキリストが働かれたのか。 その答えは「・・・だから・・・」である。 神は相応しく無いと思える人間をとらえ、キリストはおよそ似つかわしく無い人間を召し上げられる。 つまり、自分こそが相応しい、自分こそが似つかわしいと自負している者など神は召されない。 ここにキリスト教の醍醐味、神の選択の不可解を見ざるを得ない。 本当は実に痛快で愉快、思わず笑ってしまうほど、神はユーモアをお持ちである。 私など自分が牧師にさせられたことを考えれば考えるほど、神さまの不思議を思ってしまう。
今日、クリスチャンとして生きておられる方々。 あなたはどれ程、こういう視点でご自分を考えたことが、おありだろうか。 一言で言えば奇跡、二言で言えば神の神たる選択(神にしか出来ないこと)であり、立場を変えれば(私達からすれば)「絶対にあり得ない選択」なのである。
榎本保朗師が言っておられた。 「天には天の都合がある。」ということ。 通常、私達人間は自分のことしか考えない。 自分最優先なのである。 当然、自分の都合しか考えない。 これが人間関係における火種にもなる。 「クリスチャンになった暁!」なのに、自分優先ご都合主義が一向に収まって来ない。 何とも情けないのだが、こればっかりは如何ともし難い。 だから祈っても、祈っても、目の前が変わらないのを感じると、「主よ、あなたは何をお考えなのしょう?」と始まる。 始まるのでなく自力の忍耐が終っただけのことである。 だが、「天には天のご都合があるのだから。」と腹を括ってしまえば、案外サッパリというか、ねちっこく祈り続けられるかと思う。 やがて時至れば、神さまの都合の順番が巡ってきて、こちらへ風も吹いて来るというものだ。 主も言われた。「風はその思いのままに吹く。」
「コリントする?」と言えば、「不品行する?」に通じるくらい、ひどい例えだったが実話である。 そのコリントにキリストの教会が生まれた! 神さまは本当に凄い方である。 そしてその教会とパウロの関係を通して値千金の教えが次々と生まれた。 彼の手紙から、私は「本当の自由とは何か」を教えられた。 クリスチャンとノンクリスチャンの結婚に関する見方を教えられた。 賜物のこと、アガペーのこと、異言の問題等々、実に真理の宝庫である。 誠に主は恵み深く、その思いは海より深い。
「素晴らしき主キリストさま、あなたの深い摂理を見極めることなど到底出来ませんが、ひたすら貴方の後をついて行く者にしてください。 どうか、私をあきらめないでいてください。 こんな者を選んで呼んで下さったのですから、いつの日か、きっといつか何かのお役に立ちとうございます。アーメン」