■ With God all things are possible (神は何でも出来るのです) / 第一コリント3:10~17 (2013-07-07)

「With God all things are possible 」 (神さまはどんなことでも出来るのです。)

「そうです、私が祈った通りに答えが来なくても、神は必ずことを起こして下さるのです。」 と、考えている人がどれだけいるだろうか? 人間は自己中心であるから、どうしても祈った窓口に神さまが答えを下さらないと、何となくスッキリしないものがある。 私など情けないが、ご利益主義的な思いが残っており、自分が投げ入れた賽銭箱に答えを入れて投げ返して欲しいものです、などとついつい思ってしまう。

人の性とは各も惨めである。 もっと大きく大胆に、地中海気候の様に「あっけらかん」と生きたいが、沁みこんだ垢がどうしても落とせない。 落とせるのは天と地を造られた神さまだけだ。

どうも願うところに生きられないのは「・・・しない」からか「・・・出来ない」からかと考えた。 しかし、「しない」と「出来ない」は、明確に違う。 「しない」とは初めから見限って何も行動を起こしていないが、「出来ない」は「やってみたが出来ない」のか、「出来そうにない」から出来ないという風に分かれる。 但し、神を信じるというのであれば、「しない」「出来ない」という領域内でまごまごしていては、とてもじゃないが生ける神を体験することなど出来ようもない。 「自分で出来ません」と思っても、神さまには出来るのだから、そこは神を信じて足を一歩でも二歩でも踏み出す。 踏み出したところから先が神の働かれる領域である。 信仰はそこから働くのであって、信仰とは想像したり、しげしげと眺めるものではない。 信仰とは、あなたの力を試す場所ではなくて、神を信じて神と共に行動を起こすことである。

パウロはコリントの教会に向かって言った。 救われた人の生活とは、様々な材料と材質を使って立てる「神の宮」建築に似ている。 ある人は猛火にも負けない材料、つまり金、銀、宝石の様な材料を用いて建てるかも知れない。 またある人は木、草、藁など燃え落ちてしまう材料で建てているかも知れない。 仮に宮が燃え落ちたにせよ、その人自身は救われる。 そして燃え残った宮を造った人は、再臨のキリストから報酬を受けるだろう。 (黙示録22:12節) 大切なことは救われた人自身が「神の宮」「聖霊の宮」であるということだ。 キリストの土台の上には、キリストの質、人格、行動に相応しい宮でなければならない。 幾ら煌びやかな宮を造ったにせよ、その人自身の栄光のためであるなら、神の御目には砂の上に立てた家であって、大雨が降っただけで跡形も無くなってしまうのである。

キリストの基礎石上に建てる宮は、キリストと一緒に設計図をひき、一緒に材料を選択ているから仮に小さくてもキリストの栄光輝く宮となるだろう。 主に仕える場所と内容は実に様々ある。 どんなに目立たない場所、どんなに小さな奉仕であるにせよ、「自分は主から呼ばれ、主に仕えさせて貰っているんだ。」という認識があれば先ずもって何より尊いことだ。

榎本保朗師が書かれた本の一節。 京都で教会保育園を経営していたとき、あるご婦人はトイレの掃除を日々、黙々と努めていたそうだ。 榎本師があるとき、中学校の講演に呼ばれたとき、トイレと掃除のおばさんの話をした。 テーマは「世界で一番偉い人」だったとか。 すると次の日曜日、大勢の中学生がおばさんとトイレを見に来て、その後に沢山の中学生が信仰に入った。

果たして人はどれほどへりくだれるだろう。 他者の目を一切気にしないで、ひたすら神さまの前で務められるだろう。 「実に素晴らしいおばさん」だと思った。 おばさんは榎本牧師の目を気にしたのではない。 キリストから与えられた仕事をこつこつとこなしただけである。 彼女が栄光を神に帰したとき、神は彼女を通して栄光を現された。 名だたる大伝道者も及ばない働きを、便所掃除のおばさんを通してもたらされたのである。 そう、神には何でも出来るのである。

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