■ キリスト者の経つところ / 第一コリント3:21~4:5 (2013-07-14)

昔、クリスチャンになり、やがて教師になり、そして牧師になって何年も過ぎたのに、いつも思わされることがある。 それは「自分で信仰生活をやっているのではない。」ということである。 頭で分かっていても、心の奥底に溜まっているものが、「俺だって頑張って奉仕して来たんだ。俺だって努力して来たんだ。」という思い。

ここに問題が残ってしまう。 何かことあると簡単に心が折れ掛かったり、小さなことで腹が立ったり、傷ついたりしてしまう。 振り返って思えば大したことでも無い部分で反応しているのだから、やはり「俺が俺がの世界に埋没してるんかなぁ・・」と反省しきり。

そこへいくと、「やはりパウロ先生は偉かったなぁ」と思う。 彼だって弱さも感情の縺れもあったし、心が折れそうになった事は度々あった。 だが、パウロと私では生きているステージは天と地ほどの差がある。 つまり人間性とか色々あるだろうが、決定的に違うのは、自分を神に明け渡しているレベルが違うのである。 そして彼は絶対として自分をヒーローにしなかった。

そうクリスチャンであるなら! ヒーローは「ナザレのイエス」しかいないと知るべし。 俺が、俺が、の世界はゴミ溜めにでも掃いて捨てたいものだ。 神を信じ、神に近くされるものこそ、「しもべ」であり、「はしため」である。 パウロは「私は主の奴隷である」とまで言い切った。

コリント教会を見たパウロが真っ先に感じたことがあった。 それは慢心、傲慢、自己中心、世との妥協といった生き方、考え方が教会にまざまざと現存していることだった。 彼らの目にキリストの十字架が映ることがあったとすれば、それこそ十字架の慈愛だけであったと思う。 そして私達も少なからず同じ色を持っている。 パウロの色からは程遠いのであるのは残念だが・・・ でも救いがある、それは「そのこと」を認識しているからだ。

大昔、出エジプトを果たしたモーセ、兄のアロン、姉のミリヤムはイスラエル百万の民と荒野の旅にあった。 幾多の困難を通りながら、いよいよ約束の地が近くなった時期。 姉のミリヤムが死んだ。 そしてモーセの「不従順の咎」により、今また、兄のアロンが主に拠ってその命を終えようとしていた。 神のことばによって、アロンの祭司職はアロンの息子のエルアザルに継がれようとしていた。

モーセはアロンとエルアザルを伴って、ホル山に登る。 アロンはそこで祭司の服を脱ぎ、息子に着せた。 そしてアロンは死んで行く。 モーセはアロンという存在によって出エジプトを果たしたことは否めない。 そして姉を見送り、今また兄を見送った。 その心のすべてを計り知ることは出来ないが、私自身が感じたことがある。 そしてキリスト者であるならば、誰だって胸が詰る瞬間であろう。

「主よ、わたしたちは主に召された時から今日まであなたに従って参りました。 愚痴と不満不平の民を率いながら、この荒野を40年近く旅してきました。 あなたへの不従順もありました。 でも、・・・でも・・・・何なのでしょう。私どもとは。。。。」

神を疑ってしまう場面である。 神が分からなくなる場面である。

しかし、そこを越えるようにと十字架が立ったのである。 十字架の主を見上げよ、彼の苦しみと叫びを聞け、彼はなぜ木に掛けられたのか。 神を疑い、神が分からなくなったところから、真のキリスト者の誕生があるのではないか、と思う。 神を知れば、自分が分からなくなる。 そここそが血路と思う。 そうではないか、元々わからない生き方ばかりを繰り返す自分であったのだから。

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