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■ 宙ぶらりん / 第一コリント5:1~5 (2013-07-28)

私自身、旧約聖書に語られ、そして救いに導かれた。
そのためか旧約聖書大好き人間である。
 登場する人物それぞれに親近感を覚え、彼らの考えるところ、生きるところ、その人間性が実に身近である。
 生々しく登場しては、聖書を読む私に語り掛けてくる。
 神から離れては罪を犯し、試練に耐えかねて神に泣き叫び祈るイスラエルに応えられる神。
 聖書は客観的視点から語ってはいるが、そこにこそ時間も人種を超え、共有する信仰と価値観が満ち満ちている。
 

そして旧約は律法の書である。
 神の規範から遠くかけ離れてしまった人間という罪の存在。
 創造主のご要望に、とても及ばないものの、そこにだって神さまの苦悩が滲み出ている。
 詩篇、ヨブ記、神は見える方ではないが、決して人間から遠く御自身を隠された方ではない。
 小預言書には、絶望の中にも神が希望の灯りを備えておられると書いてある。
 

 仮に、である。
もし、旧約聖書を読まない、考えない、知らなかったとしたら、クリスチャン信仰は「宙ぶらりん」である、と言おう。
 本当に勿体無い話である。
イエスの十字架は旧約の預言の成就である。
よみがえりのキリストを信じる信仰は、旧約聖書の完成ではないか。
 

コリントの教会はスタート時から病んでいたと言える。
 確かに彼らはキリストを信じていた。
しかし彼らの神観には、ペテロやアポロ、パウロといった弟子達の存在さえもキリストと横並びに連なっていたのである。(第一コリント1:13節~)
コリントの教会はキリストをしっかり掴んではいなかった。
 十字架は律法を成就したものであり、律法は破棄破壊されたものではなく、イエスの十字架が永遠に、しっかりと踏みしめているものである。
 律法の目指したものは何か?
 律法の目指した先になぜ、十字架が置かれたのか?
それは個人個人が出会わねばならないカルバリの丘の出来事につながる。
 

 宙ぶらりん、クリスチャンの誰だって自分がそうだとは思うまい。
しかし、キリスト信仰を失い、教会と礼拝から離れ行くとしたら、やはりカルバリの方が見えなくなったことが原因ではなかろうか。
 己が内の暗闇が見えなくなったからではなかろうか。
 信仰の道は決して「なだらか」ではない。
いつもはぐれそうになる。
いつも岐路がある。
 曲がり角が多い。
 霧に包まれ、時として火も迫る。
だが、イエスはいつもあなたの隣に前に、そして後ろにおられる。
 最も忘れてならないことは、私の内に住んでおられるのだ。
 

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