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■ IDOL WORSHIP アイドル・ワーシップ(偶像崇拝) / 第一コリント10:1~23 (2013-09-01)

時代はアイドル流行(はやり)時代である。 いや、大昔から人間はアイドルを求めて来た。 多くのタレント、映画人、スポーツ界、人々の心を掴むアイドルは次から次へと登場し、そしてやがは消えて行く。 そう、アイドルは消えて行くものでもあるが、キリストはアイドルではない。

平和な日本は特にアイドルの世界である。 アイドルは人の心を魅了し、ひき付け、そして慰めや希望も与える。 時として一般の人でも、あまりに心のめり込むと事件に至る場合だってある。 アイドルと自分を一体化させたり、二人だけの世界を幻覚かしてしまうからだ。 その昔、イスラエルが出エジプトを果たし、約束の地に至るにあたり、神が最も心配されたことは、イスラエルの心が神からアイドルへと移り、まことの神を忘れることだった。 神は幾度も幾度もモーセを通して、そのことを悟らせようとされた。 そして創造主の心配事は直ぐに実現して行った。

目に見えない神を信じ続けることは、人間にとって実に難しいことである。 目に見える世界は誘惑対象八百万である。 人はどうしても、そのことを忘れ、目に映るものに心を奪われる。 イスラエルは、その過ちを犯したために、幾十万の人々が神罰によって死んだ。 まことの神は「ねたむ程に、私達人間を愛しておられる」方である。 このことをクリスチャンは勿論、旧約聖書時代の人々もやはり理解していない。 「頭で分かっていたにせよ、実生活が伴わなければ理解していない」ことである、と私は思う。 私自身、同様にそういう者だからであるが、人の弱さはつくづくと、この身と心をもって知らされた。

英訳で「アイドル・ワーシップ」という言葉は「偶像崇拝」と訳す。 礼拝よりも、もっと強く踏み込んだのが「崇拝」という表現であろうか。 確かにそう思う。 礼拝は誰でも出来るだろう。 だが、崇拝は違う。 信仰する対称に心を捧げ、魂を捧げ、他のすべてを無にしても、その対象に対して絶対的献身を決意し、他の一切に微塵の妥協を許さないことこそ、崇拝の意味であると思う。

だが、偶像に何があるだろう。 実は何もない!のである。 主張も無く、主体性もなく、論理も真理もない。 それがどうして人の心を乗っ取ることが出来るのか? それは偶像に力があるのでなく、人が求める心の渇望を満たす何かをアイドルに映し出し、それを「実際にアイドルが持つ力」と錯覚しているのである。 聖書が言う。 第一コリント8:4 『私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。』

Delusionという言葉は明確にその意味を示す。(思い違い。錯覚。間違った信念。) イリュウジョンはマジシャンが使う手であるが、ディリュウジョンは我々クリスチャンが陥るところである。 もし、である。 もし、自分が信じる方向にイエスを見ていない(神の臨在)のであれば、それは間違った信念かも知れないのだから、勇気を出してその所でキリストの御顔を拝すべきである。 これが新約時代におけるクリスチャンの恵みなのだから。

最後に第一コリント10章13節 『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』 上記の聖句を幾度、私は人々と自分に対して引用したであろうか、と思う。 この聖句はパウロが偶像礼拝をしているコリント教会の人々に警告と励ましの意味で分かち合ったものだ。 本来、誰もが受けるであろう人生の苦しみ、困難、病、死別、離婚、等のためではない。 あなたが偶像に対し心を開かないように、肯定しないように、というパウロからの警告文である。 それは試練というより、試みでありテストであり、誘惑とも解すべき言葉である。

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