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■ 融通を効かせる生き方 / 第一コリント7:1~16 (2013-09-08)

September 8, 2013

第一コリントの7章、その書き出しに対して多くの人々が困惑すると思う。
 『さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが、男が女に触れないのは良いことです。
しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。
 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。』
 

 何か突拍子無い唐突で極端過ぎると感じるが、それはあくまでコリントの教会からの手紙にあった質問が私たちには知らされていないだけである。
 冒頭・・・『さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが・・・』ここである。
 

この章で書かれていることは、男女、夫婦の問題に対してであり、教会内外を問わず非常に身近でありつつも、何となく触れたくない内容でもある。
 35年クリスチャンをさせていただいている私も初めて扱った様に思う。
 確かに結婚は性交そのものだけが目的ためではないが、しかし重要な位置を占めていることは事実である。
コリント教会にあった考え方。
 夫婦がクリスチャンになった場合、性の問題をどう処理するのか?
 果たして夫に権利があるのか、無いのか?
 場合によって性そのものは、夫婦の信仰の清さを保つために邪魔ではないか?
であるから夫婦別れて暮らすことも一案ではないか?

 

ギリシャ人に根深く存在する性に対する考え方があった。
 崇高で気高いものは人間の霊性と魂であって、肉体はさげすむべきものである。
それは肉体が持つ欲望と性質に対する蔑視からであった。
この考えが二つの相反する極端な方向性を生んだ。
 一つ目、肉体は霊と魂の比較するなら何らの価値もない。肉の求めなど勝手気ままにさせたとて何らを失うものではない。
 二つ目、
 肉体の欲望を抑圧し制圧することこそ、魂の働きを高揚させることであり、実に尊いことである。

 

パウロは夫婦生活における自己中心的欲望を満たすことを否定した。
 肉体は夫婦それぞれ相手のものであるのであって、自分のからだでであっても、自分だけのものではないということである。
この考え方は実に崇高な教えである。
 性は創造主が人間男女に備えられた祝福である。
 性は夫婦という関係においてこそ、想像主の意図を理解させ、性の清さとその目的を達するのである。
そこには男尊女卑といった過ちなど僅かたりとも存在し得ない。
 

 「融通」という言葉、私は今までこれほどの深い意味を知ったことが無かった。
その意味は、「融けあって、とどこおりなく、通じる、若しくは結びつく」という意味である。
クリスチャンは先ず初めに神と自分において、融通が生きている関係を作るべきである。
 私達は神に対して本当に「滞りない状態」であろうか?
 神さまに融けあった関係になっているだろうか?
それは垣根もバリアも完全に無い状態である。
 仮にそうであるとしたら、クリスチャン夫婦は文字通り神に栄光を帰する二人となる。
 

 

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