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■ チャレンジはいつだって一人ぽっち / 第二列王記17:1~16 (2013-10-13)

クリスチャンになってつくづく思い知ったこと。
それは、いつも信仰の仲間がいることだ。
 家族の中でクリスチャンがいれば、いつだって気軽に聖書を分かち合えるし、考え方を共有できるし、一緒に祈ることが出来る。
 教会に行けば沢山の同信の仲間がいて、本当に励まされるし慰めもある。
 教会の一員に属することによって、自分の信仰が今日も守られていることは事実だ。
 私はスモール・グループでの聖書の学びは大好きである。
 本当に細やかに、心と信仰をシェアー出来るし、祈りを共有する。
 

 私は生まれついての対人コンプレックス・(苦手)(人間嫌いとは言いづらい)であった。
だからクリスチャンになるまで、最小人数の友達しかいなかった。
それでよかったからである。
それはつまり人間関係の構築が下手なので、人間嫌いだったのかも知れない。
まあ、カッコ良く言えば、孤独が好きだったということか。
だから仕事にしても「一国一城の主」(仮に社長一人の企業であろうと)を目指した。
 人のために汗を流すのでなく、自分(直接的に)のためにだけ汗を流したいからだった。
 

そんな私がクリスチャンになってから環境は180度変わった。
いつだって必ず周りに誰かいる。
 教会で奉仕が始まると、嫌でも人間関係の構築を求められる。
 苦手とか嫌とか言っていられなくなったが、同時に楽しさは何倍も増し加わった。
 新しい信徒さんの成長に関わることは生き甲斐でもあった。
その延長に身を置いていると、自分も並行して成長させられるし、第一人間が好きになれる。
 人間は厄介だが、嬉しいときも、思い通りにならないときも様々あって楽しい。
ぶつかりもあれば和解もある。
あれ程抵抗していた牧師という奉仕を何となく目指すようになったのは、そういった部分に少なからず魅力を感じたからかも知れない。
 長い時間を掛け、雨だれの様な僅かな水で固い石さえも抉る如く、主なる方は私を堀り、御言葉と聖霊の鍬を入れられた。
 

そして、やがて知ったこと。
それは戦うとき、人ははつも一人ということであった。
 確かに祈ってくれる友も、教会も家族もいる。
しかし、最後は自分で腹を決めるのだ。
 祈る誰かが居ないときだってある。
そんな時だって、主の前で置かれた岐路を決めるのは一人である。
そして主と主の言葉にすべてを賭けて「主の示された道に進む」ことを選ぶ瞬間は一人で主だけを見上げるしかない。
それがベストな選びであるからだ。
 

 覚えよう、私達は一人で立つときこそ、主なるイエスがまん前におられることを。
 主はあなたの後ろ、あなたの脇におられる。
だから、人の意見や言葉、増してや弱気の虫の声に惑わされず、ひたすらキリストのみ声だけを聞いて従おう。
 

 1対1で主の前に立つ勇気こそ、本当の勇気である。
エリヤという預言者、彼こそ大胆そのものであった。
 単身、悪の権力者アハブ王の前に「神の言葉なくしてイスラエルに雨も露も降らない」ことを宣言した。
その日から主はエリヤを淋しいケリテ川の畔の岩場に隠し、川の水と烏が運ぶパンと肉で養われた。
エリヤは来る日も来る日も一人、自然界の隅で生かされた。
 主のミニストリーに加わる者は、即座に実践的行動を伴う働きに導かれ、同時に訓練される。
 学びを成就したら、卒業したら・・・ではない。
 学びつつ、そして実践である。
クリスチャンは実践の最中に同時進行で学びを受けているのである。
 

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