■ 神の国は今どこに / ルカ17:20~21 (2013-10-20)

世のキリスト教会は人々に対して様々な印象を与えている。 「これが教会」「これでも教会」という印象は否定的なことへの表現であろう。 「でも教会」「だから教会」はかなり前向きだ。 しかし、単に教会と言って、ひと括りにすべきではないかも知れない。 すべては教会員に要因があり、ひと握りのクリスチャンであるのが大体である。 つまり、キリストさまには一点の落ち度も無いのに、いつも名前だけ担ぎ出されている。 キリスト教会のここが嫌いとか、キリスト教のここがいけない、とか言われても原因はやはり人間である。 ある一面だけ見て、さも聖書全体と神ご自身がそうであるかの様な短絡的に下した評価である。 「イエスさま、すみません。。。私達のおけげで。。。」と頭を下げるしかない。

イエスさまが「天のみ国が近づいた。」と公生涯のスタートで言われ、十字架が迫った頃には「神の国はあなた方のただ中(周囲、内側)にある。」と言われた。 ここで言われる神の国とは、地上における神の国であって、天国ではない。 この地上に現される「神の国」は永遠に存在はしない。 瞬時、数時間、数日といった時間の長さであろうか。 「エホバの証人」が主張する如く、地上における楽園的で永続するなどと聖書は主張しない。 せめて一般のクリスチャンは、そのところをはっきりと認識して欲しい。

また、仮に私たちが平坦でナチュラルな生き方をしていたら、神の国など生涯体験しないであろう。 そう、神の国は見るためではなく、感じるためではなく、体験するためである。 確かに神の国は、ここに有るとか、あそこに有るとかのものでもない。 神の国は人が造り出すものではないが、私達の生き方による。 人と人との和解、赦し合い、などは、人間が神の前に真実に謙遜にならなければ成り立たないが、実際そういう瞬間こそ「神の国」が出現したと捉えるべきである。 つまり人間の力では及ばない事だが、人が神の方に向きを変えた故に起こった事に「神の国が来た」とも言える。

また「神の国」はその時点では意識しなくても、後になって気がつくこともある。 主キリストが私達のど真ん中に立たれるとき、私達の心がまったく主に従うとき、神の国はその場に現れる。

キリストが人間世界に最も望んでおられるのは、赦し合い、和解、修復、回復だと思う。 「神の国とその義を求めなさい。」(マタイ6:33)とはそのためである。 諍い、妬み、差別、偏見、殺意、排他、ありとあらゆる「悪の種」が私達の中にある。 人は生まれつき、そういう種をふんだんに内蔵しているが、それらに聖なる光りをあてることが出来るのは、唯一、天の父なる神だ。

当月、私達の教会はリバイバルに取り組んでいる。 取り組まねばならないこと自体、キリスト教会としてイエスさまに対して恥ずかしい思いもするが、キリスト教会だからこそ、取り組めるし、主は喜んで下さると思う。 何をしたらリバイバルが訪れる、ではない。 ノウハウなど無い。 そこに主イエスが働いてくださって、私たちの心が主を見るときに、リバイバルは起こると信じる。 「神の国とその義を求めなさい。」とは、キリストを第一にして、自分を捨てることである。 実に難しいと思っているが、キリストを第一にしないから、自分を捨てられないのである。 ここに私たちが自分を第一にしている事実が浮かび上がる。 それが恥ずかしい、みっとも無いと感じるからリバイバルに蓋をする。

「ああ、私は何と惨めな人間でしょう。誰がこの死の体から私を救ってくれるのでしょう?」

(ローマ7:24) だが!パウロはその直後で宣言した。 「私達の主、イエス・キリストのゆえに神に感謝します。」 パウロは自分の罪の大きさに絶望し頭をうな垂れたが、その視野で解決の鍵を見た。 解決の鍵は、罪に悔いてうな垂れる私の足元に置いてあるのに、それが無いために目を落とせない。 ああ、神の国は何と遠いのだろうか。 私の直ぐそばにあり、私の内にも来ようとしているのに。

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