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■ 聖絶 / ヨシュア記7:1~13 (2013-11-24)

November 23, 2013

ヨルダン川を渡り、約束の地に足を踏み入れたイスラエルは主の約束と導きの下、文字通り連戦連勝の日々であった。
それは彼らが主を信じ、戦いと結果を主に委ねたからである。
 「恐れてはならない、雄雄しくあれ」との、主からのみ声を聞いたヨシュア達は神への従順により戦ったのである。
エリコの城は「神の導きのままに行動して」崩され、ぶんどりものは神へのささげ物として選り分けられた。
 

 「聖絶」と言う言葉はおそらく旧約聖書、しかもヨシュア記、サムエル記に登場する言葉かと思う。
それは戦って勝ち得た捕虜や家畜、分捕り品を人間のものとせず、神に帰すことである。
ヨシュア6:18
『ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。』
これは絶対なる神の鉄則であった。
 

エリコの戦い後、アイという小さな町に攻め込んだが、何とイスラエルは36人の死者を出し、それまでの戦いで初めての負け戦を体験した。
それはまさか、と言う以外に言葉が見つからない程、惨めな敗戦であった。
ヨシュアは神の前で、地に膝をついて頭を垂れ、着物を裂いて頭に灰をかぶった。
 突きつけられた不条理な結果を受け入れられない心を態度で現したのである。
そのわけをヨシュアは主に問うた。
 主はヨシュアに答えられた。「イスラエルは罪を犯した。あなた方は 聖絶のものを盗み、自分たちのものにした。その 聖絶の物を一掃しないかぎり、わたしはもはやあなた方と共にはいない。」
 

ヨシュアが主に命じられ、イスラエルの民にあ「くじ」(くじは神が主権を握っておられる)を引かせると、民族、氏族、部族、家族とより分けられてアカンという男が当たりくじを手にした。
アカンが盗んだものは、実際大した量ではなかった。
バビロン製の皮コート、銀2キロ強、金600グラム。
アカンはヨシュアに告白した。
 「ほんとうに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。」
 

 新約時代であったなら、アカンの心中からの告白を聞いて、彼はきっと赦されたであろう。
だが、時代と環境が違った。
アカンは彼と家族、親族、家畜、盗んだ物と共に、石もって打たれ投げられ、石の山が出来るほど死体の上に積まれたのである。
そして神の怒りはイスラエルの上から去った。
 

 神に帰されるべきものを盗んだこと自体で、イスラエルは敗戦をこうむり、そして36名が死んだ。
 何よりもイスラエルの上に神の怒りが置かれた。
そのためにアカンは一族と共に惨殺されたのである。
 

 旧約は「神の良心」であると榎本保朗先生が言っておられた。
そのとおりだと思う。
 新約聖書の神の慈愛と寛容の中だけで信仰生活は出来ない。
 熱くも冷たくもなくなるであろう。
 何故なら「救い、赦しのベース」は「私の罪のために神の御子が殺されねばならぬ程に神の怒りがあった」ということである。
 新約は旧約の上に置かれている。
 新約と旧約の神が違い過ぎるのではない。
イエス・キリストが旧約と新約の間に挟まって下さったからこそ、新約の愛と平和があるのだ。
 

イエスさまは五千人、七千人の空腹を満たされた。
 手元にあった食料は二匹の魚と五つのパンという子供の弁当であった。
イエスさまは、その微々たる物を天に向かって差し上げ、神さまの祝福を仰ぎ、弟子達に配るよう命じられると、人々は満腹になるまで食べ、余ったパン屑は12の篭に一杯になった。
 

 神さまは僅かなものを大きく用いられた。
 僅かなものを通してご自身の栄光を現された。
 

 今の時代であっても、神さまは僅かなこと、わずかなものを重要視される。
 私達はもっとそこを見て生きるべきであろう。
 大きなことだけをイメージするより、目の前の小さいことを実行し、それを積み重ね続けるることは価値あることだと思う。
そこに神さまが見ておられるであろう僅かなものを私達が見るからである。
 

 

 

 

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