■ 救い主は極限に立たれる / 士師記6:33~7:9 (2014-02-09)

神に選ばれ立てられたギデオンがラッパを吹き鳴らすと、3万を超える戦士が集まった。 さあ、ここまで来たからにはギデオンとて、やめるわけには行かなかった。 彼の吹いた音色は戦う友への招集ラッパであった。 それは同時に、後戻りが出来なくなって立たされた崖っぷちであった。 ギデオンは此処からの行動において、神が共におられ、助けてくれること以外に手の打ちようがないと知り、そのための確証を主に求めた。

ギデオンは1頭分の羊の皮を地面に敷き、主にこう求めた。 「もし主が私を用いてイスラエルを救おうと為されるのでしたら、此処にある羊の毛だけに露が降りて、地は渇いたままにして下さい。」 すると翌朝になり、羊の毛を絞ると鉢は露で溢れた。 それでもギデオンは再度、主に申し上げた。 「どうか私を怒らず、もう一度試させてください。今度は羊の皮だけ乾いていて、そこ以外は露が降りるようにしてください。」 すると翌朝その様になった。

これは旧約時代である。 新約時代の私達には求められない神への注文であった。 私達はそういった奇跡を求めることは出来ないし、神は聞かれない。 救い主イエスが十字架で殺され3日目によみがえられた「しるし」以外は与えらないと、主イエスは仰せられた。 つまり、私達はいかなる現象もしるしも「見ずに信じる信仰」の道すがらに置かれたからだ。 それは何よりも「主、我と共におられる」という方、インマヌエルがいつでも何処でも御一緒なのである。 私が主に求めるのは確証ではなく、主から来るところの確信を持つことこそ、神への信仰である。

私達は毎度のことながら極限、つまりギリギリの所に立たされないと信仰に立てない。 平凡で、ほぼ順風満帆な人生であるとするなら極限など別世界であろうか。 だからこそ、主は時として私達を極限に近い様な現状をもたらされるのかも知れない。 そして、そここそ「助け主が我が内におられる」ことを知るべし、の場所なのである。 そういう場面は人生で幾度もないであろう。 つまり「私が何々をしました」の世界でなく。「主が私を助けてくださいました」になる場所だ。

人間はどうしても目に見えるもの、目に見える対象を求める。 目に見える助け手、目に見える信頼できる対象を求める。 仮にそれが友であったり、信仰の先輩であったり、医者であったり、金銭であったりもするだろう。 しかし、そういう助け手に期待を裏切られたりした時に、私達が陥るジレンマがある。 私自身も少なからず体験した。 先ず、足元がぐらつく。 自身を失う。 心が騒ぎ祈りさえも出来ない。 神が遠くに去ってしまわれたようにも思える。

人間とは実に弱いものである。 しかし、そこでこそ見える対象ではなく、見えない方に目(信仰の目)を向ける時であり、救い主が最も傍におられることを信じるチャンスである。 ギデオンの本当の戦いは、既にずっと前から始まっていたのである。

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