ギデオンの武器 / 士師記7:8~21 (2014-02-23)
私達(ここではクリスチャンとして)は決して弱くは無い。 強い、のである。 それはつまり自我に生きる故に、である。 弱いようでも弱くはない。 表面的に弱く思えても、内側が強い。 人間とは実に強いのである。 だから神さまが働けない。 神さまに働いていただくことを許さないのだ。 そう「我負けるとき、神が勝つ」、自我が地にひれ伏したとき、主は私達を用いて思う存分働かれるということである。
私が36年間クリスチャンの端くれとして生きて来られて、そこで新たなる発見に関しては「枚挙に暇がない」とつくづく思える。 ギデオンという若い兵士の武器は?と考えて、私の答えは「ラッパと松明と空壷」とずっと思って来た。 しかい違った。 彼の武器は「神に聞き従うこと」だけだった。 それだけである。 神さまが彼に求めたのはそれだけだった。 そして、それこそが人間にとって一番難しいことだと思った。
私はどうしても自分が先に立ってしまう。 主が先にではなく、私が主体であり、主語になってしまう。 実際、これが私なのである。 イエスさまが行く道のはるか先に私が行ってしまう。 これを図式で表すとしたら可笑しくて仕方が無い。 本当は笑い事ではないのだが、実際そうなのである。 心配事にせよ、私が先にある。不安だってある。 すると、当然であるが信仰はしんがりだ。
ジョージ・ミューラーという人は30年掛かって万に近い孤児達を世話し、面倒をみた。 毎日が奇跡であり、神さまの出番の連続だったと思う。 彼には力も金も地位も無かった。 有ったのは神への信仰一つだった。 自分から人々に金銭等の援助を求めたことなど一度も無かった。 彼が助けを求めた先は、まさに主であった。 常識では考えられないが、神がなさったおおわざである。 人間の目には奇跡でも、神さまにとってはお茶の子さいさいだった。 ミューラーの言葉「心配の始まりは信仰の終わりであり、真の信仰の始まりは心配の終わりである。」 アーメンである。
ギデオンには当初3万有余の兵士がいた。 しかし、主は「それでは多過ぎる」と言われた。 兵隊が多ければギデオンは人数に頼る。 しかし、少なければ神に頼らざるを得ない。 そして結果は1%に満たない3百人の兵士で、4万とも思える敵に打ち勝った。
信仰と狂気は紙一重かも知れない。 しかし狂気の中に神は臨在されない。 信仰なら神の栄光が人々の心を捉える。
C・H・スポルジョン師の遺訓がある。 小さな信仰はあなたの魂を天国につれてゆく。 しかし、大きな信仰は、あなたの魂に天国をもたらす。