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■ JESUS / ヨハネ12:35~50 (2014-03-23)

確かに人間は宗教を持たずとも生きて行ける。 だが宗教を持たない、しない人だとしても、やはり自分を神にしているのが無神論者でもある。 つまり人は内側に「霊性」を秘めている。 どん形であれ、人は拝む対象を求める。 美しい自然に感動し神への畏敬を感じたりもする。 未知の世界、未知の命や生き物など出会い、その不思議に「何らかの力の存在」を想像する。

良心というものも、霊性の一部である。 全ての人間は良心を持っている。 それはモラルの基準であり、義を求める場所でもある。 仮に豊かな財産と健康に恵まれたとしても、人は永遠に生きるわけでもなく、いつまでも若くいられるわけでもない。 様々な不安は何処まで人間に付きまとう。 やはり人間は「絶対不動不変の対象」を求め続けて生きている。 世界中の様々な遺跡はその証拠である。

ヨハネ12::44~45にこうある。 また、イエスは大声で言われた。 『わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。』

イエスに出会い、イエスを求めて生きるなら、あなたはイエスを遣わした神に出会うと言っておられる。 このシンプルな道に対して、人間はあまり関心を持たない。 若しくは知り過ぎて、既に感動も薄れたのだろうか。 イエスは決してオーバーに自己宣伝をされたのではない。 イエスを知るなら、私達は神を知り、イエスを見るなら、人は神を見るのである(ヨハネ14:8~9)。

クリスチャンになるとき、私達はキリストを受け入れた。 そして神を信じることができた。 しかし、その後は何となく達観的というか、求道者的に生きていないだろうか。 つまり具体性を欠いた様な生き様に甘んじていないだろうか。

ヨハネ14:6の言葉。 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」 !実に明快、実に端的ではないか。 それともこれしかない。という内容に納得しかねるのか。

使徒行伝は実にシンプル、明快、端的である。 そして時代と共に、キリスト教は姿を変えて行った、 カトリックはマリヤを聖母として崇める体型を推し進めた。 確かに御子の母ではあるが、尊敬することと崇拝することは180度の違いがある。 マルティン・ルターの宗教改革が無ければ、人はいまだ信仰による救いを得られない世界に生きていたのだろうか。 ローマ書が当初から語るのは、人の救いは信仰によるのであり、イエスを信じるなら誰でも救われるということであり、イエスに出会えば神に出会うということである。 キリスト馬鹿にでもならねば、人は彼を求めないかも知れない。

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