■ I am the VINE (わたしは葡萄の木) / ヨハネ15:1~10 (2014-03-30)

「I am the Vine」とは、英訳聖書の「わたしは葡萄の木」という言葉である。 イエスはいわれた、「わたしは葡萄の木。あなたがたはその枝である。」。 わたしは葡萄の木、I am the Vine。 このバインという言葉が実に短くて響きがいい、と思った次第である。

枝は幹に繋がっていないと枯れる。 イエスという葡萄の木から離れた枝(私達)は過ぎに枯れる。 確かにそのとおりである。 自分が既に枯れかかっているのに、それを知らないことは怖い。 ならば、尚更に一生懸命繋がらなければと思うが決してそういうものでもない。 枝の努力だけで繋がっていられるのではない。 何よりもVineとの関係を理解し、大切にすることである。

人間はどうも他力本願は苦手らしい。 つまり、「イエスさま、本当に何から何まであなたのおかげです。」と言いたがらない。 しかし、キリスト教はある意味、他力本願であると思う。 自分の力で救いも永遠命も勝ち取ることなど出来ない。

かと言って自分は何もせず、ぶら下がっているだけでは無理だ。 今、生かされていることの意味と、生きてゆく意味を心に留め置く必要位いはあるだろう。 キリストにつながっていると思い込んでいる枝は決して少なく無いが、少しも実を結ばない自堕落な生き方をしている枝は切り落とされると、ヨハネ15:2は警告する。 そして実を結ぶ枝はもっともっと実を豊かに結ぶために剪定されるとも書いてある。

自分はクリスチャンです、などと言っているだけでは決して実を結べない。 覚えよう、枝は木から途切れなく養分を貰っていなければ、直ぐに枯れてしまうことを。 枝が付ける実はVine、キリストの実である筈だ。 他の実をつけるなど、あり得ない。 枝は自分の実ではなく、Vineの実である。 どうも私達は考え違いが多い。 自分らしい実、自分カラーの実をつけたがる。 それは枝にとっておおきな誇りであるからだ。 魅力であり、誘惑はここに潜んでいる。 しかし、私達の実は、間違いなくキリストの実である筈だ。

先ずはキリストの枝となった経緯を忘れてはならない。 聖歌161番の歌詞が心に響く。 1、 この罪の深い 者のために     救い主イェスは 死なれたのか

2、 十字架の刑罰 その悩みは

    汚れた我が身を 救う為だ

3、 咎の無い者が 死ぬのを見て

    陽も雲の中に 顔を隠す

4、 まともに見ている ことは出来ぬ     心は涙で 溶けるばかり

5、 恵みにどうして 応えられよう     この身と魂 差し上げます

1860年、イリノイ州・ミシガン湖畔で客船が座礁した。 極寒のミシガン湖、レスキュー隊員であり神学生でもあったエドワード・スペンサーという青年は湖水の中と陸地を幾度も往復して17名の客を助けた。 しかし、その救助行為はエドワードの体に大きなダメージを与え、数年後に彼は天に召された。 彼の葬儀が行われた際、ある一つのことは会葬者の心を更に深く抉った。 それは、あのとき、17名の助けられた人の中で誰一人として、エドワードに対し感謝の意を届ける者はいなかったということである。

伝道者の書9:14,15節 わずかな人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て、これを包囲し、これに対して大きなとりでを築いた。 ところが、その町に、貧しいひとりの知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を解放した。しかし、だれもこの貧しい人を記憶しなかった。

誰一人、自力で、努力で、Vineにつながった人などいない。 すべて、キリストの十字架の赦しの恩恵で繋がったのである。 一番大切なことを忘れて、金メダルなど得られよう筈は無い。 土のメダルで良いのである。 それがVineの実であるならば。 それが私達にとって最も誇らしいメダルではないだろうか、兄弟たちよ。

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