■ 嫉妬 / マタイ26:14~35 (2014-04-06)

聖書が敢えて断定していないが、人間の罪の実として最も悲惨な結末を生み出す出口は「嫉妬」であると思う。 創世記から始まって新約聖書までドス黒く横たわっているのは「嫉妬」そのものである。 まず人類の営みの始まりにアダムとエバの二人の息子、兄のカインと弟アベルがいた。 成長した二人はある日、それぞれに創造主の前に供え物を持って出ている。 創世記4章はこう言った。 「アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」 主はカインに嫉妬からの怒りを収めるようにと言われたが、彼は野でアベルを殺した。

この事件を手始めに、人間は嫉妬を抑えきれることが非常に難しい生き物であると聖書は暗に語り続ける。

ヤコブの息子達、その11番目のヨセフは父に特に可愛がられ、兄たちから激しい嫉妬をかった。 ある日、落とし穴にはまり殺されかけたが、辛うじて命だけは許され、エジプトへ奴隷として売られた。

イスラエル、初代の王サウルは家来のダヴィデに激しく嫉妬し、そのためもあって精神を病んだ。 その後もサウルは激しい殺意にかられる一方で、ダヴィデが奏でる美しい竪琴の音色には癒された。 しかし、サウルの生涯はダヴィデに対する殺意で翻弄され、身の破滅へと至った。

ベツレヘムの村にメシヤ誕生、という報せを聞いたヘロデ王は生まれたばかりの乳飲み子であるメシヤを抹殺すべく手を尽くし、ベツレヘムの二歳以下の男子を皆殺しにした。 思えばすべて乳児、幼児である。サタンよりも人間は恐ろしいことが出来る。 王位を取られかねないと早合点、赤子のメシヤに激しく嫉妬したのである。 恐ろしいまでの権力者の嫉妬であった。

パリサイびと、サドカイびと、律法学者、祭司たちはイエスに対し嫉妬から来る怒りで十字架へと追い詰めた。 ナザレのイエスという、過去には存在しなかったキャラクターとカリスマ性に満ち、人々からの尊敬、親しみを持たれることが到底許せるものではなかったのである。 イエスと聞いただけで腹の虫は収まらず、常に怒りは心頭に達していた。 あの怒りはなんだったのだろうか。 イエスの自由性、広さ、真実性、寛容、愛、どれもこれも忍耐の及ばぬ範囲だったのであろう。 それこそイエスに対する嫉妬から出た以外の何ものでなかった。

「十字架だ、十字架につけろ!」と叫んだ群衆は昨日まで、「ホサナ、ホサナ、栄光あれ、主の御名によって来られる方に。」と呼んだ群衆と全く別の人々だったのか。 自分たちが一切持ち得なかった聖さ、義、力、正直、優しさ等、イエスの魅力と民衆からの羨望を一身に受ける魅力を備え持つイエスへの嫉妬は、後先見たことの無い、激しいものだった。

人間の「罪と死、そして悪魔」は、神の御子に対して激しい嫉妬の炎を燃やし投げつけた。 結果として「自身の終わり」をもたらすことになった悪の断末魔こそ、「十字架につけろ!」の叫びであったのだ。

嫉妬心は多かれ少なかれ、人間誰でも持っている。 それ通常は人の心の中で小さい火種でしかないが、いざ機会が訪れるや否や、消し止めることの出来ない野火の様に燃え広がり、憎しみから殺意の火炎へと向かうのである。

創世記4:7節、主のみ言葉を心に刻もう。 「罪は戸口で待ち伏せし、あなたを恋い慕っている。だが、あなたはそれを収めるべきである。」

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