■ 私はキリストと共に十字架につけられた / ルカ23:1~23 (2014-04-13)

イエスが裁判に掛けられた理由は、「神を父と呼んだ」からであった。 それはとにかく、当時の律法学者、祭司、ユダヤ教集団はイエスを抹殺することが本音であった。 神の御子イエスは人間が欲しいと思っても手に入れられないすべてを持っておられた。 無償の愛、誰に対しても偏見の無い公平な愛。そして神からの知恵であった。 人々から愛され、必要とされたイエスに対し、時の宗教関係者はのっぴきならない妬みを感じていたからである。

ユダヤの国主はヘロデ、絶えず上なる権力ににじり寄った男である。 そういうヘロデを最も忌み嫌ったのが、ローマ政府から派遣されていた総督ピラト。 ヘロデはピラトを目の上のたんこぶの様に邪魔な存在と考えていた。 ピラトが恐れたのはローマの頂点に立つ皇帝(カイザル)であり、総督の首を脅かす事件はヘロデ王ではなく、ユダヤ人達の暴動そのものであった。

ユダヤを平穏無事に制定するのは、至難の業でもあったらしい。 それは異邦人であるローマ人に虐げられること自体、神の民を自負するユダヤ人にとっては我慢のならない支配構造だった。 一般民衆もヘロデの腐敗政治の下、貧富の差と圧制に日頃から憎しみとストレスが鬱積し、その捌け口は必ず起こる暴動であった。

ピラトにとって厄介な事件が起こった。 ナザレのイエスを裁判にかけた上、死刑を言い渡すようにと律法学者達は策を仕向けた。 しかし、ピラトの目にイエスを殺す理由など何一つ見あたらない。 ピラトはイエスがガリラヤ出身であることを知りヘロデに引き渡した。 イエスの処遇に関して、責任をヘロデに転嫁渡したのである。 そしてヘロデとてイエスを死罪にする理由など見つけられなかった。 イエスは二人の権力者の間で、まるで物の様にやり取りだれた。 この出来事により、犬猿の仲の様だったヘロデとピラトは仲良くなった(ルカ23:12)。

仮に仲の悪い二者が居たとしよう。 あるとき、その中間にイエスが介在されたとする。 そして二人の関係は変わった。 良くなるときがあり、また離れる結果もある。

二人であれ、一人であれ、イエスという方が心の前、若しくは真中に立たれる時こそ、人間は己を見させられ、自我に向かわざるを得ない。 しかし、ある場合それは麗しい時であり、自我に支配される者にとってはイエスは煙たい存在にもなる。 私など、その二方向をいつも体験させられて来た。

だから一番の問題は、自分が今、どういう目と心でキリストに向かっているかである。 それが人にとって人生における分かれ道、岐路となる。 だが、どれだけ自分自身に背を向けず生きられるかは、私達にとって大いなる恵と祝福の瞬間であることだけは間違い無い。

ピラトは言った、「このナザレのイエスをあなた方はどうしたい?」 ユダヤ人は口々に叫んだ「十字架だ、イエスを十字架につけろ!」 そしてピラトは暴動になりそうな空気を察知して厳かに宣言した。 「ナザレのイエスを殺すことに対して私に責任は無い!」 人々は叫んだ。 「その人の血が我々と子供たちの上に降りかかっても構わない。」(マタイ27:25) 遂にユダヤ人はイエスの死の責任を自分の上に置いた。

以降、人類は彼の血によって救われ永遠へと導かれ、もう一方でイエスを否定して己が罪の責任を背負って永遠の滅びと入る。 十字架は人類に向かって生きるべき道の選択を問うて来たのである。 人類有る限り人は絶えずその岐路に置かれる。

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